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山本和範の編集履歴

2018-02-16 09:45:37 バージョン

山本和範

かずやまもとことやまもとかずのり

山本和範は元プロ野球選手(外野手)、現よしもとクリエイティブ・エージェンシースポーツ部のタレント『カズ山本』。

経歴

1957年10月18日生まれ、福岡県小倉市(現:北九州市小倉北区)出身。

左投左打、ポジションは外野手。


北九州市立戸畑商業高等学校(現:北九州市立高等学校)を経て、1976年ドラフト5位で近鉄バファローズに投手として入団。

右耳に難聴を抱え、高校1年の際に単位が足らず留年した事で1年遅れながら入団だった。


入団直後に外野手へ転向。入団4年目にキャンプから好調でオープン戦で打撃ベスト5入りするが、1軍では振るわず、以後も結果は出ないまま1982年に戦力外通告を受けた。

引退して福岡への帰郷を決意していたが同僚の勧めでバッティングセンターでのアルバイトをしながら練習していた時期に、当時南海ホークス監督の穴吹義雄に誘われて1983年、南海に入団。


山本一義打撃コーチの指導で頭角を現し、練習のし過ぎで過労で倒れて入院するほどの努力で右耳の難聴を乗り越え、投手時代の自慢の強肩と正確な送球で1984年に右翼手のレギュラーを獲得。

1986年にはオールスターゲームに監督推薦で出場し、ゴールデングラブ賞を受賞。

その後、南海ホークス福岡ダイエーホークス門田博光佐々木誠らと共に主力選手として活躍、類稀な勝負強さを発揮した。


1994年シーズン途中の5月中旬、長年その顔つきからドラキュラを略した「ドラ」と呼ばれていた自らのニックネームについて「学校で子どもがいじめられる」という理由で球団に登録名の変更を申請、約2か月後の7月25日の試合から登録名を「カズ山本」に変更し出場、『バントをしない2番打者』として打率でイチロー(鈴木一朗)に次ぐリーグ2位、かつ自己ベストの打率.317の成績を残し、契約更改で年俸が2億の大台に達する。


1995年、開幕早々左翼手としてプレー中に右肩を亜脱臼し、戦線離脱。成績も移籍後最低で高年俸から事実上の戦力外通告を受け、自由契約。

1996年に入団テストを受け、近鉄時代の先輩でもあった佐々木恭介監督に「あいつは若手の手本になる。」と見いだされ、古巣・近鉄へ移籍。背番号をホークス時代の29を逆にした92に変え、登録名も本名に戻す。

同年のオールスターゲーム、初めてファン投票出場を果たし、福岡ドームで藪恵壹から決勝ホームランを放ち、MVPを獲得。

1999年はシーズンを通して一軍昇格することなく、球団側は42歳の山本を自由契約にして引退を勧めたが、山本は現役続行を宣言。9月30日の最終戦(福岡ドームでの対ダイエー戦)で一軍に昇格。山本の近鉄退団を知っていた満員のダイエーファンから『山本コール』の大合唱が起こり、南海時代から使われている応援歌がダイエー応援団の集まるライトスタンドからも流れた。山本は最終打席で篠原貴行からカウント0ストライク3ボールで決勝ホームランを放つ。試合後、ダイエーの優勝セレモニーの前に、山本はファンの声援に応え場内を一周、この光景を見て「これ以上の感動を与えるプレーは、無理だろう」と現役引退を決めた。


引退後は吉本興業(2007年10月1日より持株会社化に伴い、新設子会社のよしもとクリエイティブ・エージェンシーへ移行)に所属、福岡県飯塚市・北九州市小倉北区のバッティングセンターで地元の子供たちを対象に毎月2回程度野球教室を行いながら、社会人野球クラブチームの福岡オーシャンズ9の監督⇒総監督や北九州市にある「子どもの館HOW!?」の館長を務める。


水島新司の漫画『あぶさん』への登場回数が非常に多く、本人のパーソナルヒストリーも描かれたことがある(単行本第31巻 『一寸の虫にも』)。


関連項目

プロ野球 プロ野球選手 引退したプロ野球選手一覧

タレント 吉本興業

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