概要
(1938年7月22日 - 2016年9月17日)。
1961年に地元の広島カープへ入団。
1964年には初の規定打席到達でリーグ9位に入り、21試合に4番打者として起用された。
1966年はリーグ8位で初の打率.300を記録し、初のベストナインにも選出される。
1967年は右翼手に回り、自己最高でリーグ4位の打率.311を記録。
1968年は開幕から4番打者に座って球団史上初のAクラス入りに貢献すると、1969年にはリーグ5位の打率.294で21本塁打を放って2度目のベストナイン選出。しかしタイトル獲得は無かった。
1973年には新外国人のジム・ヒックスが外野の一角を奪い、出場機会が減少する。チームの主将を務め、1974年からはコーチを兼任。1975年はレギュラーから外れたがリーグ初優勝を経験し、阪急との日本シリーズ第4戦では2回表に足立光宏から本塁打を放つ。同年引退。
引退後は解説者や指導者として活躍した。
2016年9月17日午後9時4分、尿管癌のため広島市内の病院で死去。78歳没。
監督・コーチ歴
広島東洋カープ (1974 - 1979)
近鉄バファローズ (1980 - 1981)
ロッテオリオンズ (1982 - 1983)監督
南海ホークス (1984 - 1985)
カープアカデミー
広島東洋カープ (1994 - 1998)