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後桃園天皇の編集履歴

2018-07-08 20:35:24 バージョン

後桃園天皇

ごももぞのてんのう

後桃園天皇とは江戸時代の天皇

重要

桃園天皇の第一皇子。母は関白太政大臣一条兼香の娘、一条富子。同母弟に伏見宮貞行親王、諡は英仁(ひでひと

在位

1770年5月23日ー1779年12月16日

経歴

明和5年2月19日(1768年4月6日)に立太子。皇太子今上天皇の子でないのは熙成親王(長慶天皇の弟、のちの後亀山天皇)以来400年ぶりで2018年現在最後の例。今上天皇の甥が皇太子になったのは益仁親王(光明天皇の甥、のちの崇光天皇)以来430年ぶり。明和7年(1770年)伯母後桜町天皇の譲位を受けて即位。


在位中の安永2年(1773年)には、朝廷の経理などを行う口向に属する地下官人による大規模な不正が発覚し、江戸幕府による処分が行われた(安永の御所騒動)。


病気がちであり、安永8年(1779年)に在位のまま22歳で崩御。

死後

子が欣子内親王のみであったので、急遽閑院宮家より養子を迎え(閑院宮師仁親王、即位後は兼仁に改名)、光格天皇として即位させた。欣子内親王はのちに光格天皇の中宮となり、6年後の寛政12年1月22日(1800年2月15日)、第三皇子温仁親王を出産するも、夭折。その後、文化13年1月28日(1816年2月25日)に再び第七皇子悦仁親王を出産するが、こちらも文政4年2月11日(1821年3月14日)に6歳で夭折し、これにより中御門天皇からの皇統は完全に途絶えてしまうこととなった。

関連項目

朝廷 天皇 光格天皇

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