カルパト・ウクライナ共和国
かるぱとうくらいなきょうわこく
歴史
スロバキア東部にあるカルパティア・ルテニアは、ウクライナ人が多く住む地方であり西ウクライナとも呼ばれていた。しかしカルパティア山脈という障壁により、歴史的にはウクライナと異なる国家に統治され続けた。9世紀頃にはモラヴィア王国、10世紀以降にはブルガリア帝国、12世紀にはウラジーミル2世モノマフによりキエフ大公国、13世紀にはベーラ4世によってハンガリー王国の版図に組み込まれた。このためカルパティア・ルテニアは聖イシュトヴァーンの王冠の地の一つとして、ハンガリーの固有の領土であると認識されるようになった。
16世紀からはハンガリーはハプスブルク家の統治下となったが、まもなくオスマン帝国の支配下となった。18世紀以降はオーストリア帝国の一部として統治され、オーストリア=ハンガリー帝国の成立後は帝国内のハンガリー王国の一部として統治された。
1918年、第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が敗北し、帝国支配下の民族が分離独立を始めた。ロシア帝国もロシア革命で滅亡していたため、カルパティア・ルテニアとブコビナ、リヴィウ等のウクライナ人も蜂起し、10月18日に西ウクライナ人民共和国の独立を宣言した。西ウクライナ人民共和国はウクライナ人民共和国との合同を目指したが、1919年7月のポーランド・ウクライナ戦争の結果、ウクライナの合同は不可能となった。共和国は分割され、カルパティア・ルテニアはトリアノン条約とサン=ジェルマン条約により、チェコスロバキア共和国に編入された。
チェコスロバキア統治時代
サン=ジェルマン条約の規定では、カルパティア・ルテニアは完全な自治権が与えられることになっていた。1920年に制定されたチェコスロバキア憲法でもカルパティア・ルテニアに自治権を与える規定はあったものの、独自の議会を招集することも大統領の指名も許されず、自治は形だけのものとなっていた。
このため中央政府への反発は強く、1935年の総選挙の際にも中央政府を支持する政党にはカルパティア・ルテニア全体の35%の票しか集まらなかった。
自治政府成立
1938年、ナチス・ドイツがチェコスロバキア共和国のズデーテン地方を要求した。これに便乗してハンガリー王国がカルパティア・ルテニアとスロバキアの割譲を要求し、国境地帯に軍を集結させた。ミュンヘン会談の結果、ドイツ国の要求は通り、その他の係争地も個別に対応を迫られることになった。
チェコスロバキア共和国のエドヴァルド・ベネシュ大統領は辞任し、10月1日に連邦制の国家チェコ=スロバキア共和国が成立した。10月8日、カルパティア・ルテニアはスロバキアとともに自治権を獲得し、アウグスティーン・ヴォローシンがカルパティア・ルテニアの大統領に選出された。
一方で、ハンガリー王国の領土要求はやまなかった。このためチェコ=スロバキア共和国政府はドイツとイタリアに調停を依頼した。ウィーンで開催された会議の結果、チェコ=スロバキアはカルパティア・ルテニアとスロバキアの南部を割譲することが決まった。しかし両自治共和国はこれに反発し、割譲が予定通り行われることはなかった。このためハンガリー王国からの圧力は次第に強まった。
独立と消滅
1939年1月、激しい独立運動に手を焼いたチェコ=スロバキアはドイツに協力を要請したが拒絶された。チェコ=スロバキア政府は弾圧に転じ、3月6日にカルパティア・ルテニアの自治政府を禁止した。
3月15日、ドイツはスロバキア自治政府の大統領であったヨゼフ・ティソ氏に独立宣言をさせ、ドイツの傀儡としてのスロバキア共和国を成立させた。同日、カルパティア・ルテニアも「カルパト・ウクライナ共和国」として独立宣言を行った。
しかしドイツと密約を結んでいたハンガリー軍は即座に侵攻し、16日にはほぼ全土を占領、カルパト・ウクライナ併合を宣言した。17日にはポーランド]国境地帯に到達し、カルパト・ウクライナ全土が併合された。大統領ヴォローシンはプラハに亡命し、カルパト・ウクライナ共和国は3日で消滅した。
戦後
1944年10月、赤軍はハンガリー国内に侵攻し、カルパティア・ルテニアを占領下に置いた。この間にソ連の支援の元ザカルパート・ウクライナ(УКР: Закарпатська Україна)として再独立を果たした。チェコスロバキア亡命政府はソ連に抗議したが、受け入れられなかった。11月19日、ザカルパート・ウクライナ国内の共産主義者はソ連への併合要求を発表した。この間にヴォローシンら独立派はソ連に逮捕され、ソ連国内の収容所に入れられた(ヴォローシンは1945年に獄死)。1945年6月、チェコスロバキア共和国政府は要求を受諾し、1946年にザカルパート・ウクライナは正式にソビエト連邦ウクライナ・ソビエト社会主義共和国にザカルパッチャ州として編入された。ソ連崩壊後もウクライナのザカルパッチャ州として存続している。
国歌
僅か数日で滅びたカルパト・ウクライナ共和国ではあるが、現在のウクライナの国歌であるЩе не вмерла Українаが国歌として採用した。
憲法
カルパト・ウクライナ共和国は独立直後に憲法を制定している。
•カルパト・ウクライナは独立国家である。
•国名はカルパト・ウクライナとする。
•カルパト・ウクライナは共和国であり、選挙によって選出された大統領が国家元首として統治する。
•カルパト・ウクライナの公用語はウクライナ語である。
•カルパト・ウクライナの国旗の色は青を上部に、黄を下にする。
•カルパト・ウクライナの国章は赤い熊が紋章の側に立っているものとする。紋章は青が4つ、黄色が3つのストライプで構成された偉大なる聖公ウラジーミル1世が使用したものである。
カルパト・ウクライナの国歌は『Ще не вмерла Україна』とする。
•この規定は公布後直ちに有効である。