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ハンニバル・バルカの編集履歴

2019-07-08 21:15:28 バージョン

ハンニバル・バルカ

はんいばる

紀元前247年-紀元前183年頃。第二次ポエニ戦争などで活躍したカルタゴの将軍・司令官。

概要

名前は「ハンニバル・バルカ」と書かれる場合が多いが、実際はおそらく単にハンニバルで「バルカ」はつかない。

「ハンニバル」はフェニキア語で「バアルの恵み」や「慈悲深きバアル」の意味でカルタゴでは割とありふれた名前。バルカは「雷光」を意味する添え名だが、これは父に与えられた添え名であり多数の同名のハンニバルと区別するため便宜上に付されているに過ぎない。尤も父に与えられた添え名を家族名のごとく扱い子孫も使用したローマ人の習慣に引っ張られている場合もあるかもしれない。ギリシア語形のハンニバル・バルカスと表記されることもある。


紀元前247年-紀元前183年ごろのフェニキア人でカルタゴの将軍。第一次ポエニ戦争で活躍したハミルカル・バルカの息子。

別名「ローマ史上最大の敵」

人類史上最高の戦術家として名高く、「カンナエ(カンネー)の戦い」で用いた、その包囲殲滅戦法(後述)は現在でも各国の軍学校の教科書に載っているほど。

また当時地中海最強であったローマが相手より多い軍勢を持ちながら敗北したのは彼のみである。


その生涯

紀元前247年に誕生。ハミルカル・バルカ将軍の息子としてカルタゴで生を受ける。

9歳の時、父のイベリア半島への出征に同行を申し出た際、父にバアル神の神殿へ連れられ、「一生ローマぶっころすの誓い(超意訳)」を行う。ただこのエピソードは後年亡命中のハンニバルが「俺は筋金入りの反ローマだぜ」のアピールとして語ったものでありどこまで事実とするかについて意見は分かれる。

父の死後、義兄(姉婿)であるハシュドゥルバルのもとで生活するが、紀元前221年にハシュドゥルバルは暗殺されてしまう。その後司令官の座を引き継いだハンニバルは、父の遺志であったイベリア半島(スペイン)平定を成し、ここを半ば一族の私領として運営しローマと戦うための準備を始める。


ローマとの条約を破ってハンニバルがイベリア半島のローマ勢力圏に侵攻したことで第二次ポエニ戦争は始まる。ハンニバルの軍勢はイベリア半島からガリア南部を通り、当時不可能だと思われていたアルプス山脈を越えてイタリア半島へと侵攻する。この際まで連れてアルプス越えを果たしたことは後世まで驚きを持って伝わっている。

その後かの有名な「カンナエの戦い」でローマを破ったが、そのままローマを落とすべきとの進言を退け、ハンニバルはイタリア半島の都市国家を切り離しローマを孤立させることを選択した。ところが父が彼に教えたローマの時代とは違い、今やローマと周辺諸都市の結束は予想以上に固く、この戦略的判断ミスが後々まで響いていく。

ハンニバルの能力をカンナエ以前から見抜いていたローマのファビウス将軍は、ハンニバルと衝突することを避け、ハンニバルが攻めようとする土地を先に焼き払って逃げてしまうという焦土戦法による持久戦を試みていた。当初、この消極的な戦法はローマ内外から批判されていたが、カンナエ以降、ハンニバルの恐ろしさが知れ渡るとファビウス戦略の有効さを認めた。

一方ハンニバルの方はファビウスの私領のみ略奪を手控えさせたり、捕虜となったローマ兵と同盟都市の兵とで待遇を分けたりと分断工作を欠かさなかった。

ハンニバルの連勝はイタリア諸都市の完全な離反には至らなかったもののいくつかの都市を造反させることには成功した。また東方のマケドニア王国を反ローマに引き込むことにも成功していた。マケドニアの参戦により南のカルタゴ、シチリア、西のイベリア半島のバルカ家領、北のガリア人、東のマケドニア、そして中央のハンニバルという構図が出来上がり、このことはハンニバルの戦略的才能も証明している。


しかしこのローマ包囲網は国力を総動員したローマにより徐々に破られていく。

それでも、ハンニバルはファビウス戦略により本国との連携も取れず兵站もろくに補充できなかった(本国は日和見主義だった上、制海権はローマがにぎったままだった)ものの、十数年に渡ってイタリア半島で暴れまわったが、ハンニバルの弟ハスドルバルがイベリアから軍勢を率いてハンニバルと合流しようとするもその途上でローマ軍に阻止され戦死を遂げ、もう一人の弟マゴも援軍を率いて海路よりイタリアに上陸するも進路を阻まれるなどハンニバルは援軍のないままジリ貧となりつつあり、常勝将軍の彼がイタリアに釘付け状態で何も出来ないなか、イベリア半島からカルタゴは駆逐され、シチリアのシラクサは占領され、マケドニアも敗北し、更には勢いに乗ったローマはカルタゴ本国に侵攻する。

カルタゴ本土に攻撃を仕掛けられた結果、ハンニバルはイタリア半島から撤退しアフリカに戻る。そして「ザマの戦い」で、かつて自分がカンナエで使った包囲殲滅戦法をラーニングし、更にはかってのハンニバル軍の主力であったヌミディア騎兵を取り込んだ大スキピオ率いるローマ軍に、ついに敗北した。

ただし、この戦いでもハンニバルの軍事的天才ぶりは衰えず、既に精兵でなくなった両翼の騎兵には精鋭ヌミディア騎兵を中心とした敵騎兵を後退して誘致することで時間を稼がせ、その間の重装歩兵同士の戦闘には第一・第二陣から従来より離れた場所に第三陣を配置して、第一・第二陣を突破し疲弊した相手にそれを叩きつけて撃破しようとする現代の予備部隊の概念に通じる先進的な布陣を行っていたという。(もっとも先鋒の象軍団の突撃の失敗、第一・第二陣の予想より速い崩壊、スキピオの機転によるローマ軍の敵前での休息などの戦場での齟齬でハンニバルの作戦は画餅に帰し、ローマ軍を圧倒できなかったカルタゴ重装歩兵は、カルタゴ騎兵を遠く追い払い戦場に戻って来たヌミディア騎兵達に後方・側面に回り込まれ包囲殲滅される事となった)


その後、敗戦処理などでも辣腕を振るい、政治家としても人並み外れた能力を発揮するものの、反ハンニバル派によるクーデターで失脚。

シリアに逃れるものの、ローマからの追っ手がかかり、最終的には自害した。


包囲殲滅戦法

基本的には自軍の重装歩兵を床として相手の歩兵の攻撃を受け止めている間、両翼のヌミディア騎兵を中心とした精鋭騎兵で相手の騎兵を撃破し、そのまま両翼から相手後方・側面に回りこませてハンマーとして床に釘付けにされた相手に振り下ろし包囲し、「自分たちは100%の戦力で戦えるが、敵はほとんどの兵士が戦闘できない状態」を作り出して殲滅する作戦。

トレビアの戦いでもハンニバルにより行われたが、包囲殲滅する前に精強ローマ重装歩兵軍団は床である正面歩兵軍団の中央を突破して脱出した為に失敗に終わっていた。

この戦いを教訓として、カンナエの戦いにおいて、ハンニバルは数で大きくまさるローマに対し、

弱体な自軍重装歩兵を弓状に湾曲した形で突出して配置することで強力なローマ重装歩兵に押し込まれても後退して時間を稼げる距離を与え、強力な両翼の騎兵戦力でローマ両翼を蹂躙して包囲網を完成させるまで重装歩兵が突破されないようにし、ローマ中央部を包囲殲滅する一方的な大勝利を実現した。


ドリフターズにおけるハンニバル・バルカ

「こいつはなあ お前らなんぞ何百万人いても勝てないんだよ

こいつは こいつは!

こいつは、ハンニバル! ハンニバル・バルカ! 俺のローマは100万の軍勢は恐れないが、こいつ唯一人を恐れた!」byスキピオ

平野耕太作の漫画、『ドリフターズ』において本人として登場。

ハンニバリオン初号機。カルタゴが産んだ汎用人型決戦兵器。ローマの近くでサードインパクトを起こし、ローマを滅ぼしかけた。

人類史上最強の戦術家としての能力は衰えていないものの、寄る年波には勝てず、頻尿・尿漏れに悩まされている。誰かハルンケア買ってこい。もしくは作れるだろ、オカマとかが。

ツンデレジジイことスキピオ・アフリカヌスと喧嘩するほど仲が良かったが、戦地からの脱出の道中でスキピオが馬車から落馬、その結果人生に張り合いがなくなったハンニバルは、急激にボケてしまう

が、時折シャキっとするので、妖怪首おいてけからは「維新斎さまと同じ目ばしとる」と評価されている。実際シャキっとしてるときに立案する作戦は、のぶのぶもビックリするほど有効。あと著作権にうるさい。燃料は木いちご。

木いちごくれなきゃカルタゴほろぶ。おなかがすいた…ローマを焼こう。


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カルタゴ スキピオ・アフリカヌス

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