第二次世界大戦以前に日本が唱えた東アジア・東南アジアの地域共同体の将来像。
概要
第一次世界大戦後の世界秩序は、欧洲においてはベルサイユ体制、東洋においてはワシントン体制によって形作られた。
米国主導で築かれたワシントン体制は、中国大陸市場への参入に後れをとった米国が、その後れを取り戻すために日本・イギリス・フランスに、中華民国の主権尊重・門戸開放・機会均等を約束させたものだったといわれる。ところが、昭和4年に世界恐慌が発生すると、欧米各国は自由貿易を抛棄してブロック経済圏を設定しはじめた。
このような世界情勢に直面して、日本国内でも自給自足のための経済圏を東洋に持たなければならないという意見が台頭し、ワシントン体制の打破が叫ばれるようになった。
昭和13年に近衛文麿が「東亜新秩序(という名のアジア共産化)」を東アジアの将来像として掲げ、日本は東アジアにおけるブロック勢力圏の建設こそ日支事変の目的であると公言した。これが後に東南アジアにまで拡大されて「大東亜共栄圏」と称されたのが昭和15年の「基本国策要綱」からで、はじめて「八紘一宇」をスローガンとし、欧米によって植民地支配されたアジア諸国を日本の影響下に置き、ブロック勢力圏を築くことを目指した。
昭和15年7月に近衛文麿内閣が決定した「基本国策要綱」に対する外務大臣松岡洋右の談話に使われてから「大東亜共栄圏」が流行語化。昭和18年に東京で開催された日本とアジア6ヵ国(中華民国・満州・タイ・ビルマ・フィリピン・インド)の代表による「大東亜会議」で「大東亜共同宣言」が採択された。
戦争終結で日本は敗戦し、大東亜共栄圏は実現されることはなかったが、この地域の共同体構想は「東アジア共同体」として中曽根康弘、鳩山由紀夫らにより現在も唱えられている。
なお、戦時中に大義名分になった経緯については、当時の世界情勢と日本政府の外交をガン無視して暴走する軍部によってもたらされた深刻な物資不足と経済不況により戦争に向かっていったのだが、それを政府と軍のメンツ的に正直に言えないために後付けされたという一面が強い。
そのため、現地の自主性を重んじた独立運動支援などできる余力など最初からあるはずがなく、それどころか物資確保のほうが日本にとっては切実極まる問題であったこともあり、軍票乱用(いわゆる後払いだが、返済期限はない)やそれに反発した現地人を弾圧するなど、本来の大東亜共栄圏思想と正反対なことをやらかしていた。