アジアの表記法のひとつ。
通常ひらがなで表記した場合、南満州鉄道(満鉄)が運行していた特急「あじあ」号のことを指すことが多いため、ここでは同列車について解説する。
南満州鉄道特急「あじあ」号
1934年から1943年まで大連駅~新京駅(現長春駅)、のちに大連駅~哈爾濱駅(ハルビン駅)間で運行された特急列車。
1067mm軌間(狭軌)に縛られていた日本国鉄と異なり、1435mm軌間(標準軌:当時の日本ではこれを広軌と称した)にパシナ形と呼ばれる大型流線型の蒸気機関車を用いる事で、営業最高速度130km/hを実現したとして、日本や満州国内などで大きく喧伝され、現在も鉄道ファンからは同時の画期的な高速列車として語られることが多い。
しかし、この点においては、実際にはヨーロッパでは既に蒸気機関車で200km/hに迫る速度のものが出現しており、また国内でも私鉄の電車列車などは100~120km/hで日常的に走行していたため、本来さほど特筆すべきものではない。
ちなみにパシナは長春以北には乗り入れず、軽量なパシハ形に交代して運行された。
このような状態になった理由としては、
- ヨーロッパ産の石炭に比べてアジア産の石炭の品質が低く、質量に対する熱量が低かった事。
- 日本の蒸気機関車開発技術がC51形・D50形以降停滞気味であった事(罐圧以外はほぼ不変で終始した)。特に後に新幹線開発で大問題になる高速運転時の共振問題は、当時は全くといって良いほど無関心だった。救いは満鉄の車両設計の流儀は完全にアメリカ本国のそれによっており、日本内地よりは条件が緩かったこと。
- 200km/hと言っても、あくまで実用とは全く関係ない速度記録のために危険を承知で無理やり走らせた結果であり、欧米諸国でも営業最高速度は130~150km/h程であったため。
等が上げられる。
本来特筆されるべきは、客車に専用の固定編成を採用し、全客室に冷房装置を搭載した事である。日本国鉄の「燕」すら固定編成前提の客車ではなく、冷房は食堂車と1等車に限られていた時代であり、世界的にも数は僅かだった。
この際の冷房装置は現在のものと異なり、機関車から供給される(本来は暖房用の)蒸気で蒸気吸引装置を作動させて負圧を発生させ、水を蒸散させて冷気を得るものだった(この構造は、アウトドア用や一昔前の病院用冷蔵庫に使われていた吸収式システムが近い。これが日本国内で採用されなかった理由のひとつは、日本国内では既に一部区間で電気機関車牽引が行われていた事、多湿な日本の環境が蒸気冷房に不向きだった事。何より機構全体がバカでかく、20m×2.8mの車体に収めるのも、また機関車のエネルギーを相応に持っていってしまうという問題も無視できなかった)。
ちなみに元はアメリカのキヤリア社の装置であった。アメリカでは第二次大戦後まで広く用いられたシステムである。
現在同様の方式の電気冷房車が日本国内に登場したのは昭和11年の南海電鉄(ダイキン製冷房装置を搭載した)を待たねばならなかった。
日本国内で固定編成・完全空調の車両は戦後も昭和33年の20系(ブルートレイン)まで待たなければならず、まさに世界最高水準の豪華列車だった。
特急あじあでは「あじあカクテル」というオリジナルのカクテルが出されていた。現在ではレシピは失われているものの札幌の「BARやまざき」や東京の「バー銀座パノラマ」でそれぞれ再現されている。