概要
第一次世界大戦中、イギリスを中心とする連合軍がオスマン・トルコの首都イスタンブール占領を目指し、ダーダネルス海峡の西側のガリポリ半島で行った大規模上陸作戦。
連合軍はトルコ軍の想定外の抵抗に多大な損害を出して撤退し、作戦は失敗に終わった。
経過
1914年、ロシア帝国軍がコーカサス方面からオスマン・トルコに侵攻したが、反撃を受けて攻勢は停滞し、イギリスに助けを求めてきた。
イギリス海軍大臣ウィンストン・チャーチルの主導でダーダネルス海峡西側のガリポリ半島に上陸しイスタンブールを占領、黒海方面でロシア帝国と連絡する計画が立案され、サー・イアン・スタンディッシュ・モンティス・ハミルトン大将が司令官に任命された。
トルコ側ではドイツから招かれた軍事顧問オットー・リーマン・フォン・ザンデルス中将がダーダネルス海峡両岸を要塞化してこれに備えた。
1915年2月19日と25日、英仏艦隊が艦砲射撃を行った。
3月18日、英仏艦隊が海峡突破を試みるが、戦艦3隻が触雷して沿岸砲台の砲撃で撃沈され、ほか3隻も大破した。
4月25日、連合軍がヘレス岬付近の5箇所で上陸作戦を開始し、3箇所を確保。オーストラリア・ニュージーランド軍(アンザック軍)もエーゲ海側の入り江(アンザック入江)に上陸した。その後、戦線は膠着した。
上陸部隊を支援していた戦艦3隻が魚雷攻撃によって撃沈され、イギリス海軍は撤退した。
8月、連合軍2個師団がエーゲ海側のスブラ湾に上陸したが、トルコ軍が高地を占拠したため塹壕戦となった。アンザック入江とスブラ湾の橋頭堡を連絡するための攻勢も失敗に終わる。
10月、ハミルトン大将が解任され、サー・チャールズ・カーマイケル・モンロー大将に交代。
中立だったブルガリアが同盟国側に参戦することになり、ドイツ軍とトルコ軍の陸路での連絡が可能となったため撤退が検討される。
10月5日、撤退が決定。
12月7日から順次撤退が行われ、1916年1月9日には最後の英軍部隊がガリポリを離れた。
その後
ガリポリ戦の失敗で連合国指導部の無能さ、計画の杜撰さが批判され、イギリス首相ハーバート・ヘンリー・アスキスは辞任。計画立案者のウィンストン・チャーチルは失脚した。
トルコ側ではザンデルス中将に抜擢されたムスタファ・ケマル大佐(後のケマル・アタチュルク)が活躍し、指導者として台頭するきっかけとなった。