題名のない音楽会
だいめいのないおんがくかい
概要
クラシック音楽を中心に、様々な音楽を取り上げる。
オーケストラや吹奏楽編成による演奏が行われる。通常はホールでの公開録画で、観覧募集を受け付けているが、単独楽器を取り上げる場合や、スタジオでの非公開録画の場合もある。
『ゴールデン・ポップス・コンサート・題名のない音楽会』時代から一貫して、石油会社の出光興産による一社提供だが、2019年4月1日付で出光と昭和シェル石油が経営統合したことから、同年4月6日放送分から「出光昭和シェル」に名称変更された。
テレビ朝日系列24局、福井テレビ(フジテレビ系列)、北日本放送(日本テレビ系列)、山陰放送、宮崎放送、テレビ高知(以上TBS系列)、BS朝日で放送されている。
テレビ朝日、東日本放送、福島放送、琉球朝日放送は土曜朝10:00-10:30に放送。それ以外の局は早朝もしくは午前中に先行ネットもしくは遅れネットでの放送となっているほか、BS朝日と福井テレビでも翌日午前に放送される。
長年の視聴習慣から「ニチアサ枠に引き続き本番組も視聴する」というルーティンを確立していた世帯も多く、それだけに「サンデーLIVE!!」開始時の枠移動には「ゴルゴムではなくジャニーズの仕業か?!」と口走ったりしなかったりしながら視聴習慣の変更を余儀なくされた視聴者も少なくなかった。
ちなみに「題名のない〜」という部分が語感的パラドクスを生じさせる(題名が「ある」のに何故「ない」と呼ばれるのか理解出来ず混乱する、など)事があり、これによって言語上のゲシュタルト崩壊を起こすという事例が少なからず存在するという。
歴史
番組誕生・黛時代
1964年8月1日、当時東京放送(現在のTBSホールディングス)から専属契約を打ち切られた東京交響楽団に活動の場を与えるため、土曜20:30-21:00に日本科学技術振興財団(東京12チャンネル。現在のテレビ東京)が『ゴールデン・ポップス・コンサート・題名のない音楽会』を制作してスタートした。この番組は東京12チャンネル以外に北海道放送、毎日放送、中国放送、山口放送でも放送された。この時の司会は黛敏郎だった。
東京12チャンネルの経営難による放送時間短縮で1966年4月以降の放送継続が困難になったこと、出光興産が「会社がつぶれるまで提供を継続する」方針であることから、他局への移籍を検討するようになった。在京キー局が一斉に手を挙げたが、当時NET(現在のテレビ朝日)がまだ専属の交響楽団を結成していなかった(フジテレビは日本フィルハーモニー交響楽団と、日本テレビが読売日本交響楽団との関係が強かった事、またTBSはそもそも東京交響楽団との契約を打ち切られた事で「諸悪の根源」とされていた事、蛇足ながらNHKはNHK交響楽団の絡みだけでなく「公共放送の観点上CMが流せない」事から移籍は論外とされ、消去法かつ必然的にNETしか選択肢が残されていなかった)ことからNETでの放送が決まり、同年4月1日から日曜9:30-10:00に『題名のない音楽会』として再スタートした(最初の2本分は東京12チャンネル制作)。番組が放送局を移籍した異例の出来事である(実際には現在のパナソニックが一社提供して1957年から1965年まで放送された「ナショナル日曜観劇会」が放送期間中の1958年3月に東京地区において日テレからTBSに変更された事例が先例として存在していたり、近年では前者とほぼ逆のケースとして「僕のヒーローアカデミア」がシーズン変更を期にMBSからytvに変更された事例が確認されているなど、極稀にではあるがこの様なケースは存在する)。
1967年10月6日から半年間金曜23:00-23:30に移動後、1968年9月29日に一度打ち切られたが、1968年10月6日から1969年6月29日まで『黛敏郎の間奏曲』を放送後、1969年7月6日に週末に放送されるようになり、特番や緊急時を除き、一度も休まず放送している。
黛が司会をしていた頃、主に現代音楽を取り扱い、ポップスや軽音楽を扱うことはまれだった。また、政治的な思想が反映されたテーマも取り上げられ、右派の黛とは対をなす(要するに左派リベラル系である)NET→テレ朝から却下されてお蔵入りになるケースもあった。1974年から1995年まで(1977年・1979年除く)のその年の最終放送は『NHK紅白歌合戦』を模したスタイルとなり、海外のオペラ歌手はもとより(なぜか)歌唱力のある財界人まで呼ばれ、恒例行事と化していた。
1969年10月4日から土曜23:00-23:30、1971年4月3日から土曜23:30-24:00、1972年4月1日から土曜22:30-23:00に放送時間が移動した。その後腸捻転解消のため、MBSに代わり朝日放送がANNに加盟したため、1975年4月6日からこの番組は再び日曜10:00-10:30に放送されるようになり、さらにABCが10時台の番組を担当するため、1980年から日曜9:00-9:30に放送されるようになった。
新・題名のない音楽会→題名のない音楽会21
1997年4月10日に黛が死去。以降永六輔が代理司会を務め、同年10月5日から『新・題名のない音楽会』にタイトルを変更し、司会に武田鉄矢を起用。黛の死後はポップスが中心となる。
2000年4月2日に『題名のない音楽会21』に改称、7年余り羽田健太郎が司会を務め、テーマ曲も作曲したが、2007年6月2日に死去。その後テレビ朝日の久保田直子アナウンサーをアシスタントに週替わりでゲスト司会を起用して放送した。
佐渡時代
2008年4月6日から『題名のない音楽会』に戻る。司会に出光音楽賞を受賞した佐渡裕を起用。ロゴも「題名のない音楽会 Untitled Concert」と書かれた紙をめくる図案に変更。「ページを1枚めくる」というコンセプトであり、譜面をめくる動作のほか、視聴者が音楽への好奇心を深めることを意味している。
指揮者になりたい一般人にオーケストラの指揮をしてもらう「振ってみまSHOW!」、青島広志が往年のクラシック作曲家に仮装するシリーズ、高嶋ちさ子による「クレーマー・ちさ子教授シリーズ」、宮川彬良による「アキラさんの大発見シリーズ」などのコミカルな企画も行われた。また、佐渡のスケジュールに合わせてスタジオ収録や海外ロケも行った。番組スタイルについて佐渡本人は「レナード・バーンスタインが指揮をしたニューヨーク・フィルハーモニックの『ヤング・ピープルズ・コンサート』を下敷きにした」と語っている。
2009年2月「世界一長寿のクラシック音楽番組」としてギネス世界記録に認定を申請、5月28日に認定された。『黛敏郎の間奏曲』のための中断期間があったことから、「1969年7月以来継続放送されているクラシック音楽番組」となっている。
五嶋→石丸時代
佐渡の降板後、2015年10月4日にバイオリニストの五嶋龍が司会に。タイトルロゴも再変更。アシスタントは松尾由美子。ほとんどの回でサブタイトルが「○○の音楽会」となった。最後にはその日の音楽に対する「今日の格言」も紹介。
五嶋は収録のたびにニューヨークから来日していたが、2017年3月26日の放送をもって卒業。同年4月2日からは当番組にゲスト出演経験のあるミュージカル俳優の石丸幹二に引き継がれた。
2017年10月よりテレ朝・ABC→ABCテレビ・メ〜テレ共同制作の『サンデーLIVE!!』が始まることにより、放送日時がテレビ朝日、福島放送、琉球朝日放送で土曜朝10:00-10:30に移動した。それ以外のテレ朝系列フルネット21局は時差ネットに移行し、系列外5局は放送時間据え置き)。BS朝日では日曜深夜から日曜8:00-8:30に移動した。一部のテレ朝系列フルネット局では日曜深夜・「やべっちFC」の次番組に移動したものの、2019年4月以降はテレ朝系列フルネット24局すべてで午前中の放送となった。
司会
- 黛敏郎(作曲家、『ゴールデン・ポップス・コンサート・題名のない音楽界』開始当初 - 1997年4月)
- 永六輔(作詞者・エッセイスト、1997年5月 - 同年9月。黛死去に伴い就任。公式には司会者代行扱い)
- 武田鉄矢(シンガーソングライター、1997年10月 - 2000年3月。タイトルは「新 題名のない音楽会」)
- 羽田健太郎(ピアニスト・作曲家、2000年3月 - 2007年6月3日。タイトルは「題名のない音楽会21」)
- 週替わり司会(2007年6月10日-2008年3月30日。テレビ朝日アナウンサーの久保田直子がアシスタント。タイトルは引き続き「題名のない音楽会21」)
- 佐渡裕(指揮者、2008年4月 - 2015年9月。タイトルは「題名のない音楽会」に戻る。さらに英文表記"Untitled Concert"を併記)
- 五嶋龍(バイオリニスト。2015年10月 - 2017年3月26日)
- 石丸幹二(ミュージカル俳優。2017年4月2日 - )
司会者などに関して補則
- 永は黛が体調不良のため1996年7月14日放送分を担当した。黛の死後は代役司会となった。
- 羽田の死後、2008年3月30日放送分まで起用されたゲストのひとりに、後に司会に就任した佐渡がいる。
- 『ゴールデン・ポップス・コンサート・題名のない音楽界』時代には歌手の九重佑三子がアシスタントを務めたほか、永以降アシスタントが付いている。原則としてテレビ朝日の女性アナウンサーが務めるが、武田後期にアシスタントを務めた加羽沢美濃はピアニストである。
- 黛時代には、作曲家・指揮者の石丸寛(黛の友人でもあった。ちなみに永も同様)や小泉文夫(民族音楽研究者)が司会代行を務めた事がある。黛のスケジュールなどの都合による。
司会者の死去による措置
- 黛が死去した直後の1997年4月13日放送分では、CMを流さず、最後に出光興産の社名で「ご冥福をお祈り申し上げます」と表示した(司会者逝去によりスポンサーが弔慰を表した、番組初にして唯一の事例)。余談だが、植木等がゲスト出演した際に「(植木に対する)追悼特番をお送りします」などと発言した事があったが(その時期が1990年初頭なので、おそらくは「木梨憲武追悼ドッキリ」程度のニュアンスであろうか)、なんの因果か発言した自身の方が先に「追悼」されるという皮肉な結果となってしまった(植木が実際に逝去したのは黛の逝去から10年後の2007年であった)。
- 羽田が死去した際、2007年6月10日に過去7年間の名演奏総集編、6月17日はゆかりのゲストとともに『-21』歴代のアシスタントが総出演したコンサートを放送した。