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解説編集

高度経済成長期の日本を代表するミュージシャンおよびコメディアンとして1960年代に一世を風靡した人物である。持ち歌の『無責任一代男』では「タイミングにC調に無責任」と歌っていたが、ご本人はいたって生真面目な性格で責任感の強い人であった。


1926年12月25日、名古屋市生まれ。ただし、戸籍上の誕生日は1927年2月25日である。

これは出生日に大正天皇が崩御され、役所が稼働していなかったために出生届の提出が遅れたことによる。ただし『徹子の部屋』で植木本人が語ったところでは父が体調を崩しており、叔父に届け出を依頼したが忘れられてしまったためとしている。「大正生まれよりは昭和生まれの方が若いイメージになって幸いだった」とも語っていた。

3歳の頃に僧侶である父が住職として三重県に移住。僧侶の修業をするために上京していた時にテイチクの新人歌手コンテストに合格、この頃から音楽の世界に入り、ギターを始める。

このころに3歳年下のドラマー・野々山定夫(=ハナ肇)と出会う。

1952年に自身と山崎唯大石康司によるトリオ「植木等とニュー・サウンズ」を結成。

1954年にフランキー堺の誘いを受けて「フランキー堺とシティ・スリッカーズ」に参加。当初は1ステージだけの参加の予定だったが残留を請われ、「ニュー・サウンズ」を解散して残留した。

1957年3月にフランキー堺が俳優に転身したことで、先にシティ・スリッカーズから移籍した谷啓のいる「キューバンキャッツ(後のクレージーキャッツ)」に参加。出演したテレビ番組『シャボン玉ホリデー』で「お呼びでない?」などの彼を代表するギャグが誕生。

1962年、映画『ニッポン無責任時代』に出演、以後「無責任男」のキャラクターができる。

1964年に『無責任遊侠伝』の撮影中に過労によるウイルス性肝炎により約1か月入院。同時期に付き人兼運転手として松崎雅臣(小松政夫)が採用される。

1972年に『シャボン玉ホリデー』が放送終了して以降は個人での活動が増える。

1990年に自ら企画したヒット曲メドレー『スーダラ伝説』が話題となり人気が復活。同年の紅白歌合戦にも出場し歌手別最高視聴率56.6%を叩き出す。

1993年11月に俳優として紫綬褒章を、1999年には勲四等旭日小綬章受章。

1995年には『ちびまる子ちゃん』のED『針切じいさんのロケン・ロール』を歌う。

1997年から肺気腫を患い、「思うように声が出なくなった」としてコンサート活動に終止符を打った。

2006年に青島幸男の通夜に酸素ボンベを付けて車いす姿で参列したのが公の場への最後の出席となった。

2007年3月27日、肺気腫による呼吸不全で死去。享年80。


植木等を演じた俳優編集


関連タグ編集

クレージーキャッツ わかっちゃいるけどやめられない 無責任 スーダラ節

谷啓 ハナ肇

バカボンのパパ:生年月日が同じ。

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