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ハインリヒ・ヒムラーの編集履歴

2020-09-27 21:25:41 バージョン

ハインリヒ・ヒムラー

はいんりひひむらー

ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler)とはナチスの政治家。親衛隊長官である。

概要

1900年生まれ。


父親は税務官、ギムナジウム(ドイツの中高一貫校)教職員、バイエルン王国王子の家庭教師という人物であった。名は王子が直々に自分の名を与えたもので、当時大変名誉あることとしてみなされていた。


恵まれた環境で平穏な少年時代を過ごすが、体は弱く病気がちの少年だった。在学中に第一次世界大戦が勃発。ヒムラーは従軍することを熱望していたが、戦場に立つ前に戦争が終わってしまう。戦後にミュンヘンの大学に進学。卒業後は農薬や肥料を取り扱う会社の研究員となった。


そんな中でも政治活動を続け、バイエルンの保守政党であるバイエルン人民党に入党し後に敵対することになるエルンスト・レームの下で働いた。ヒムラーはレームとともにしだいに反ユダヤ思想に傾倒し、人民党を離れナチスに入党する。入党後も、突撃隊の長官となったレームの元で働いていたが、1925年に親衛隊SS)というヒトラーボディーガード部隊に移転し、すぐに全体的な指導者、長官となる。


ヒムラーは親衛隊を党内全体の警察組織とするために親衛隊の人員を拡大させる。さらに、党内や国内の情報をよく仕入れるための情報部を作るため、元海軍で冷酷で謀略に長けた軍人ラインハルト・ハイドリヒを重用した。

隠密な政治活動を上手く行うラインハルトの活躍は親衛隊を、何よりナチスをより良く発展させる一因となりナチスが権力を掌握すると秘密警察・ゲシュタポの長官に任命され、対立関係にあった突撃隊の幹部を斃し、全ドイツ警察長官にも任命される。

そして強制収容所の支配権を手にし、親衛隊に武装親衛隊という戦闘部隊を成立させる。これがホロコーストにつながる。


1939年から第二次世界大戦がはじまるが、1942年に部下のハイドリヒとアドルフ・アイヒマンが「ヴァンゼー会議」という高級の政治家・軍人を集めてユダヤ人の対処を語り合い、方針が決定された。

敗北寸前の1945年、ヒトラーの誕生日にベルリンへ赴くが、すぐさまヒトラーの元を離れてしまう。

負けて滅びそうなので連合国と和平交渉しようとしていたのである。

これを知ったヒトラーは激怒して彼を全官職から解任して逮捕命令を出したが捕まる事無く、ヒトラー死後に成立した降伏政府・フレンスブルク政府へ返り咲く。

しかし今まで行ってきた非人道的行為の為に終戦工作において邪魔でしかないヒムラーは放逐され、戦犯として追いかけられる事となる。

最期は一般兵として隠れ、連合軍の検問所を抜ける際に律義に新品の身分証明書を見せたことから怪しまれ捕縛された。捕虜としての扱いに我慢できなくなったヒムラーは身分を明かしたが、それでも担当官の態度が変わらなかったことに絶望し、服毒自殺してこの世を去る。


逸話

  • 政治家として非人道的な事をしてきたが、一個人としては思いやりのある好人物であった。しかし、女性と家族に対しては冷たい態度で接し、離婚したことがある。
  • 実際の残虐行為に対して、全く免疫がなかった。強制収容所に見学しに行った際に、嘔吐を催して倒れそうになり、それを見ていた親衛隊員が隠蔽のために最前線へ送られてしまったという。しかし、その狼狽ぶりを見た強制収容所の責任者から、処刑は職員にも精神的負担が高過ぎると非難された際、その妥当性を素直に認めたうえで、それでも任務を遂行せねばならないと語ったという。
  • 友人が付けた綽名は「秘密の無いスフィンクス」。
  • ヒトラーは『我が闘争』にて日本蔑視を記述していたが、日独同盟を結ぶと日本礼賛に転び、発言に矛盾が生じた。これを受けてヒムラーは「日本人はアーリア人である」という詭弁を弄し、文化人類学を改変しようとした。

人物像

  • その外見は貧弱で小柄な体格、東洋人を思わせる顔つきにメガネという小役人風の風貌で、一般的なドイツ軍人のイメージからはかけ離れている(上記のとおり、実際に軍人出身ではないが)。「内向的な小心者で心優しいところもあるが劣等感が強い」という人柄も軍人というより小役人的なものであった。別名「第三帝国ののび太」。
  • ヒトラーの熱狂的な信奉者として知られる。軍人上がりで金髪長身、スポーツマンで個人としても冷徹極まりなく、上司のヒムラーはおろか総統ヒトラーも軽んじていたと言われる部下のハイドリヒとは、よく対照的な存在として扱われる。
  • ナチスがよくオカルトもので絡まされるのは大体こいつのせい。例を挙げればきりがないがガチでオカルトにはまっており、当初はネタ感覚で面白がっていたヒトラーも呆れ、彼のオカルト趣味を軽蔑するようになった。
  • ヒトラー以上に気合の入った菜食主義だった。ヒトラーのそれは、姪の自殺がトラウマになって死体を連想させるものを忌避するようになったためで、肉食文化までは否定しなかった。対してヒムラーは、そのオカルト趣味と動物愛護の観点から、あらゆる肉食を全面否定していた。このため、狩猟好きなゲーリングとの仲は険悪であったという。

関連イラスト

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ヒムラーナチス第三帝国

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