概要
射手のアーラシュ(ペルシア語: آرش کمانگیر Āraŝ-e Kamāngīr, アーラシェ・カマーンギール)はイラン(ペルシャ)の伝承上の英雄。神話上の弓の名手。20世紀後半あたりから人気が出始める。同郷の英雄サームに比肩する存在。
2つ名
2つ名は「速い矢(震える矢)のアーラシュ」、「射手のアーラシュ」。東方聖典叢書の英語翻訳で”Erekhsha, the swift archer”(迅い弓兵のウルクシャ)と翻訳されてる箇所があるが「迅い弓兵」と書かれてるのはここだけなのと、この書籍の附属の注釈では"Aris of the swift arrow"(迅い矢のアーラシュ)と記述されているので、単純に「迅い矢」の誤謬と思われる。
伝説上では「速い矢」(シェーバーティール、シェーワーティール、シバティール)という異名しか存在しない。しかし、Siavash Kasraiが1959年に発表した叙事詩「アーラシェ・カマーンギール」のヒットによりアーラシェ・カマーンギール(射手のアーラシュ)という呼び名が定着する。これにより、「カマーンギール」というのが主流になる。この詩は民族主義を掲げるパフラヴィー朝の下で学校の教科書にも載ったという。ただし、この詩の日本語翻訳は存在しない。
因みに上記の綴りはĀraŝ-e Kamāngīrであり、この場合「アーラ”シュ”」ではなく「アーラ”シェ”」と呼ぶ。-eはエザーフェといい、形容詞を修飾する接尾辞のこと。
イランの人には「アーラシュ」とだけ言っても「どのアーラシュさん?」となる。これは、恐らくイランの人にとっては「アーラシュ」という名前がありふれた名前のため。英雄のアーラシュのことを指すには「アーラシェ・カマーンギール」と言わないと伝わらない。
神話におけるウルクシャ(ウルフシャ)
ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』ではウルクシャ(ウルフシャ)の表記で登場する。
「アーリア人の中にて最も速い(震える)矢の射手」とされる。
マヌーチェフル王軍の中で最も優秀な射手であったことから、アリヨー・クシュサ山(デマヴァンド山)からクワンワント山(現代のアフガニスタンのバーミヤンの事だと推測されている)に矢を放ったという。
彼はこの時アフラ・マズダーに息吹を吹き込まれた。
ウルクシャの放つ矢は、ヤザタの一人ティシュトリヤ(アヴェスターでは光輪を持つティシュトリヤ星と記述されている)が飛ぶ様に例えられる。
伝説におけるアーラシュ
西アジア、中央アジアがイスラム教化されると、そこにあったゾロアスター教、ペルシャ神話のモチーフは唯一神教化されつつも一部原型を留めた。
イスラム化後の彼の伝説に登場するモチーフ、例えば王権を司る光の輪「ファッラフ(フワル、フワルナフ、クワルナフ)」はアヴェスターにも登場する。
天使として登場するものも、その語源をたどれば、アムシャ・スプンタの一人であったりする。
アーラシュの物語
イラン人とトゥーラーン人(後のトルコ人)の間で「ファッラフ」の奪い合いが生じた。
この戦争においてトゥーラーンの王アフラースィヤーブの軍が、タバリスタンでイランの王マヌーチェフル 軍を包囲した折、両者は講和を結ぶことになる。講和の結果、イラン側が用意した射手の放った矢の届いた範囲の土地をイラン側に返し、その残りをトゥーラーンの領地とする事で決まる。その射手にアーラシュが選ばれ、彼が自分の命と引き換えに矢を射ち、膨大な領地を取り返すという物語。
アーラシュの物語は、イスラム時代の出典でのみ完全な詳細が示されている。
「古代民族年代記」(アル=ビールーニー)
6日、またはホルダード(Khurdådh-Róz)には、Cashn-ī-nīlūfarと呼ばれる祭りがあるが、これの起源は最近のものと考えられている。
13日、またはティール(Tīr-Róz)には月名と同じ名のティールガーン(Tīragān)と呼ばれる祝祭日がある。祭りの由来には2つの説があり、1つは次の物語からである。アフラスィヤーブがイーラーンシャフルを鎮圧し、タバリスタンでマヌーチェフルを包囲している時、彼にいくつかの要求をした。マヌーチェフルは「彼(アフラスィヤーブ)が、射られた矢の飛距離と同じだけイーラーンシャフルの一部を返還するのなら」という条件で要求に応じた。
その際、イスファンダールマドという護り神(天使)も立ち会う。イスファンダールマドはアヴェスターにも登場する矢の製作者であり、マヌーチェフルはイスファンダールマドの指示した大きさの弓と矢を持ってくるように言う。それから、高貴で敬虔で賢い男..アーラシュを呼び、彼に弓を取り矢を射るよう命じた。
アーラシュは前に出て、服を脱ぎ、自分の行く末を語る。「王様、そして皆様方、私の身体をご覧ください。私の身体には傷も病もございません。それでも、この弓矢を使えば私の身体は砕け散り、そして死ぬでしょう。ですが、私はあなた方の為に犠牲になることを決心しました」。それから彼は仕事に取り掛かる。そして、彼は神から授かった全ての力で弓を引き絞ってから矢を放つと身体がバラバラになった。
神の命令により、風は矢をルーヤーンの山から遠ざけ、ファルガーナとタバリスタンの間のクラーサーンの最前線まで運んだ。矢は世界でも類を見ない大きさのクルミの木の幹に刺さった。矢が射出されてから落下するまでの距離は1000Farsakh(パラサング)。アフラースィヤーブとマヌーチェフルはこの一矢に基づいて条約を締結。これがきっかけとなり、人々はその日を祝祭日とした。
この包囲の間、マヌーチェフルとイーラーンシャフルの人々は小麦の熟成が遅れていたため小麦を挽くことが出来ず、パンを焼けないことを悩んでいた。最終的には小麦と果物を未熟なまますり潰して食べるしかなかった。それ以来、この日に小麦と果物を調理することが風習となっている。
「The Chronology of Ancient Nations: An English Version of the Arabic Text of the Athâr-ul-Bâkiya of Albîrûnî, Or "Vestiges of the Past"-著者:Muḥammad ibn Aḥmad Bīrūnī」から
補足
ホラズム(現代のウズベキスタン、トルクメニスタンにあった地域)の著述家アブー・ライハーン・ビールーニーの解説によると、この天使の名前はエスファダールマド(Esfandārmaḏ)またはイスファンダールマド(Isfandārmadh)という。
これはアムシャ・スプンタの一人スプンタ・アールマティのパフラヴィー語表記「スパンダールマド (Spandārmad)」がさらに訛ったものと見られる。
シャーナーメでの説明では、マヌーチェフル王の代のトゥーラーンとの戦争は小競り合いとされ、マヌーチェフル王が亡くなったあとに再び戦争が起こった時に深刻化したとされる。
ビールーニーによると、この一射により、頑健だった筈のアーラシュの肉体はバラバラになってしまったという。アーラシュが頑健を誇っていたというわけではなく、話の流れ的には人並みに健康的な身体であったにも関わらず五体が砕けてしまったというニュアンス。アーラシュが突出して頑健だったという資料はとくにない。
イラン人サアーリビーも同じ解説を残しているが、矢を射った後も存命し弓兵の指揮官として人々から慕われたとする、バグダッドの知識人アル=タバリーの記述もある。タバリーによると、この戦争はマヌーチェフルが王位について20年目の頃には既に始まっている。この時、モーセがエジプトのファラオに予言を披露している話がマヌーチェフル王の耳に入ってきているので、モーセの活動時期と同じ頃にあった戦争と推察出来る。
異なる話の流れ
「Journal asiatique: ou recueil de mémoires d'extraits et de notices ..., 第 11 巻」によると、ロスタムが産まれたのを見届けたサームがSegsarsに帰ったあと、アフラースィヤーブに戦争を仕掛けられてしまう。ザールが前線で奮闘するも、サームとザールが不在の本土を直接攻め込まれてしまいイランは窮地に陥る。数年間の籠城の末、アーラシュが矢を放ち国境を定めることになる。
「An abridged translation of the history of Tabaristán-著者:IbnIsfandiyar,Muhammad ibn al Hasan」ではカーリン(Qàrin)が不在の時をアフラースィヤーブに攻められ窮地に陥る。このとき、カーリンの代役でアーラシュが軍事指揮を取っている。これは、「国境を定める射手を誰にするか?」という話題が出る前に、アーラシュの名前が登場する唯一の資料と思われる。
『HISTOIRE DES ROIS DES PERSES-著者:Thalib, Abd al-Malik ibn』で言及されている話ではマヌーチェフル王の治世が終わってから戦争が起こり、基本的なアーラシュの物語より時期が大分遅い。アーラシュも高齢となっており、矢を放つと同時に寿命により亡くなる。
アーラシュの矢
アーラシュの放った最期の一射は度々流星に例えられ、「速い矢のアーラシュ」という異名はここからきている。アーラシュと関係のない物語でも「アーラシュの矢のような速さで~」という具合に速さの指標として使われることがある。
アーラシュの矢がここまでの飛距離が出たことには諸説あり、『アヴェスター』のテシュタル・ヤヒト(ティシュタル・ヤシュト)ではアフラ・マズダーとアムシャ・スプンタ達に矢が護られていたからとされている。
この一矢は3つ存在するイランの「名声を授けし一射」のうちの1つ、または2つ存在する「ペルシャの栄光の一射」のうちの1つとされる。
矢の飛距離について
アーラシュが放った矢の飛距離については
- 1000里(パラサング)
- 40日間歩いたほどの距離
といった説がある。矢は夜明けから正午まで、夜明けから日没まで飛び続けた、ともされている。
もとから、イランは籠城するくらい追い詰められており、和平を結ぶ前からトゥーラーン側が圧倒的に優勢な状況であった。そのため、講話条件もトゥーラーンにかなり有利なものとなったのだが、結果的にこの講話条件のせいで広大な土地をイラン側にもたらすことになる。
日本で知ってる人がいなかった理由について
イラン神話自体が日本で有名じゃない
根本的にイラン神話自体がかなりマイナーであり、有名どころは『シャー・ナーメ(王書)』くらいなものであるが、アーラシュは『シャー・ナーメ』に言及のみで彼の物語がないことが主な要因と思われる。さらに『シャー・ナーメ』の名場面を抄訳している『王書』だとアーラシュの数少ない言及部分はことごとく翻訳されていない、主要人物であるフェリドゥーンやロスタムですら日本ではあまり有名じゃないのだからアーラシュの日本での認知度がゼロなのはある意味必定である。
描写が少ない
アーラシュがメインとして描かれる場合、国境を定めるところから物語が描かれるので挿話レベルの文章量しかない(大体のものは、1ページで話が完結する。短いものなら半ページくらい)。戦争全体を掘り下げたパターンも存在するが、その場合はマヌーチェフル王が主役となり、アーラシュはラストにだけ登場するだけとなる。また、台詞があるのはビールーニーくらいなもので基本的にアーラシュには台詞が一切無い。そのビールーニーでの台詞も「王様、そして皆様方、私の身体をご覧ください。(中略)私はあなた方の為に犠牲になることを決心しました。」のみ。
現代文学
アーラシュの物語は、法廷叙事詩やロマンス、または人気のある文学には詳細に記述されておらず、時折記述される短い言及を除いて、エフサーン・ヤルシャターが「Dāstānhā-yeĪrān- eBāstān」で復活させるまで、ペルシャ文学界から失われていたとされる。 その後、アーラシュの物語は作家や詩人に共感され、「Āraš-etīr- andāz」、「Āsraš-ekamāngīr」といった作品が登場する。
彼がモデルのキャラクターが登場する作品
作中のサーヴァントの内の一騎として登場。⇒アーチャー(フラグメンツ)
なお、「アーラシュ」名義のタグが登録されている作品の殆どは彼を描いた作品である。恐らくペルシア語の「カマーンギール」を英語読みしたことで、「カマンガー」となっている。
関連タグ
サーム:同郷の英雄。