后羿
こうげい
中国神話、もしくは道教に伝わる英雄。単に羿とも称される。英語での呼び名は「ホウイー」。
堯の時代と夏の時代、二人の后羿が存在しており、前者を大羿、後者を夷羿と呼び分ける事がある。
超人的な力を持った豪傑として活躍する一方で、その末路は両者ともに悲劇的なものである。
天帝には10人の息子がおり、太陽となって交代で地上を照らしていた。
ところが、ある時10の太陽がいっぺんに天に昇る事態が起こった。
これにより地上は灼熱に包まれ、草木は燃え、作物は枯れ、川は干上がった。
そこで天帝が地上に遣わしたのが羿である。
羿は始め威嚇して太陽を説得しようとしたが効果はなかった為、
天帝より授けられた赤い弓と白い矢を取り出し、次々と太陽を撃ち落とし、
最後には太陽が1つだけ残り、地上は救われた。
落ちた太陽を確かめると、その正体は3本足のカラス…火烏だったという。
羿を遣わした天帝であったが、まさか息子たちを殺されるとは思っていなかったらしく、
激怒して羿と妻の嫦娥の二人を天界に帰れなくし、不老不死で失くしてしまった。
羿はそれでも地上の人々の為に、多数の怪物と戦い、これを討伐していった。
だが嫦娥は天に帰りたがった為、崑崙山の西王母の元を訪ね、不老不死の薬を貰った。
この薬は半分飲めば不老不死になるが、全て飲めば天に昇れるというものだった。
羿は不老不死になれば十分と思っていたが、嫦娥は薬を一人で全て飲んでしまう。
嫦娥は一人で天に昇っていったが、流石に申し訳なかったのか、
天には帰らず、代わりに月の宮殿に赴いたが、夫を裏切った報いなのか、
醜いヒキガエルの姿になってしまった。
羿はその後、弟子の逢蒙を迎え、狩りをしながら暮らすが、弓の技を吸収して逢蒙は増長し、
自らが最強の弓使いだと証明するため、弓矢で羿を襲うが敢え無く防がれる。
羿はそれでも彼を許したが、逢蒙は怒り、棍棒で羿を殴り殺してしまった。
夏の時代の羿(夷羿)にまつわる説話は、単なる英雄てはなく、ある種の逆賊・姦雄として描かれている。
夏の時代の羿は、子供の頃に親とともに山へ薬草を採取に出かけたが山中ではぐれてしまい、楚狐父(そこほ)という狩人によって保護され、楚孤父が病死するまで育てられ、その間に弓の使い方を習熟した。
その後、弓の名手であった呉賀からも技術を学び取り、その弓の腕によって羿は軍閥を成して、その勢力を拡大していったとされる。
そんな中、夏の三代目である太康の時代、太康は政治を省みずに狩猟に熱中していた。
そんな太康に対して、羿は、武羅・伯因・熊髠・尨圉などといった者と一緒に夏に対して反乱を起こし、太康を放逐して夏王朝の領土を奪った。こうして羿は王として立ち、窮石を都として諸侯を支配下に置くこととなる。
しかしその後の羿は、伯封を殺し、その母である玄妻(純狐)を娶り、寒浞という奸臣を重用し、武羅などの忠臣をしりぞけ、政治を省みずに狩猟に熱中するようになり、最後は玄妻と寒浞によって相王の8年に殺されてしまった。