- ロシア語:Ники́та Серге́евич Хрущёв
- ウクライナ語:Мики́та Сергі́йович Хрущо́в
- 英語:Nikita Khrushchev
(1894年4月17日 - 1971年9月11日)
概要
1894年4月17日にロシア帝国のクルスク県カリノフカに誕生する。本名はニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ。第3代ソビエト連邦最高指導者で、党中央委員会第一書記と閣僚会議議長(首相)を兼務した。
1918年にロシア社民労働党多数派(ボリシェビキ)に参加し、党運動員から赤軍の幹部にまで昇格した。レーニンの没後は後継者もスターリンとクレムリン(党本部)の辞令によりウクライナ共和国(彼は民族的にはウクライナ人)の第一書記に着任し、その後中央政治局員に昇格してクレムリンに入城した。1953年にスターリン直々の後継者のマレンコフとバックボーンのベリヤを放逐し、筆頭書記・書記長に就任した。そして肩書きを第一書記に変更(後任のブレジネフが書記長に戻す。)する。スターリンの死後に「スターリン批判」を行った。また在任中はスプートニク打ち上げ・キューバ危機といった重大な事件が起き、日本とソビエト連邦との国交回復も彼と鳩山一郎によって行われた。
1964年10月13日から10月14日にかけて開かれた臨時の中央委員会総会で全職を辞する。
逸話
フルシチョフがスターリンの側近になれたのは、スターリンの2番目の妻であるナジェージダ・アリルーエワ(通称ナージャ)のおかげである。ナージャの通う工業大学には論敵を次々に論破する耳の大きな太った若者がいた。後のフルシチョフである。ナージャはスターリンにフルシチョフを推薦し、定期的に家でナージャと3人で食事をするようになったのが出世の始まりとなる。これ以降フルシチョフはスターリンのお気に入りになる。
「こうやって私は生き延びた・・・・・・ナージャの存在は私の幸運の宝くじだった」。フルシチョフには自分がスターリンと同じ場所にいること自体が信じられなかったという。半ば神様のように尊敬していたスターリンが目の前にいて、いとも謙虚に「笑ったり、冗談を言ったり」していたからである。
そんな彼だが第一書記就任後、一転してスターリン批判を行なった。記者会見でスターリンの悪行を述べているとき、「そのときあんたは何をしていたんだ」と野次が飛んだ。するとフルシチョフは「今質問したのは誰だ!?」と怒鳴り、会場が静まり返ると「……そう、今の君たちのように沈黙していたのだ」と言ったという。
関連項目
【参考文献】