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森可成の編集履歴2012/01/03 21:41:33 版
編集者:Mya
編集内容:誤字脱字、おかしい文章表記を修正。

森可成は室町時代末の戦国武将。織田信長が織田家の家督を相続した時から一貫して信長に出仕しており、織田信長に従属した時期は佐久間盛信と同じく最古。伊賀の流れ者とされ出自が定かならぬ滝川一益、信長の小姓であった同年代の丹羽長秀、信長が父である織田信秀の後継となる事に異を唱え家督を争った争った信長の同母弟、勘十郎達成(織田信行。以降は織田信行で統一)に味方した柴田勝家、尾張武家の次男、三男である前田利家佐々成政、同じく出自が定かならぬ木下秀吉といった面々を見るだに、由緒ある清和源氏の家系で美濃の国主、土岐氏に仕えた森可成の出自と経歴は群を抜いている。

 具体的に信長へと帰順した時期は斉藤道三によって美濃守護である土岐氏が滅ぼされて以降の様子であり、信長が戦った戦場には例外なく従軍して武功を上げている武闘派。その苛烈な戦い振りから攻めの三左(森三左衛門可成の官職を取って三左)と呼ばれ、戦傷で手の指が一本、欠けていた事から、両の手足合わせても指が十九本しかないとの事で十九という侮蔑も受けていた模様。

 戦場では関兼常作の十文字槍を自在に振り回す剛の者であったが、武技のみに秀でる人間という訳でもなく信長の上洛後、京にて政務に携わっていた文書も残されている。

信長の家督相続時(尾張統一戦)

 うつけと評判の織田信長が家督を継いで、父信秀の代には尾張を完全掌握していた織田弾正忠家ではあったが、此処で織田信秀の風下に立たされていた織田大和守家(清洲織田家。織田弾正忠家は本来、この織田大和守家の家老である)当主である織田信友信秀の死に乗じて勢力を伸ばし、尾張国守護である斯波義統に下克上を果たして斯波義統を殺害すると、信長はすぐさま義統の息子、斯波義銀を擁立して弔いの兵を挙げる(弘治元年。萱津の戦い、清洲城の戦い)。此処で可成は敵大将である織田大和守家当主、織田信友の首級を挙げている大活躍を見せている。

 その後、舅の斉藤道三が息子である斉藤義龍に矛を向けられるとコレの救援に従事するが、長良川の戦い(弘治二年)で信長の後詰めも功を奏さず道三が討ち死にしてからは、織田家でも家督争いが勃発して斉藤龍興と同盟を結んだ織田信行と争う事となる。信行と正面衝突した稲生の戦いでは寡兵ながらも兵が奮闘して信長が勝利(余談であるが、信長が寡兵で戦闘にて臨んだ四番勝負の内の一本がこの稲生の戦いである)。無論ながらコレに可成は参戦しているが、柴田勝家がこの戦いで信行陣営の主力として参戦しているのは大きな着目点であろう。

 そして尾張下四郡の支配者であった清洲織田家(織田大和守家)を滅ぼした信長に続いて矛を向けたのが尾張上四郡、織田伊勢守家(岩倉織田家)の当主、織田信賢であり、コレと争った浮野の戦いにも可成は参戦。この戦いに勝利し信長は晴れて尾張統一を果たす。

 しかし実際にはこの時点での信長の影響力は父織田信秀の統治時に遙か及ばず、尾張の地盤が定まらぬ間隙を突かれて駿河国遠江国三河国を治める今川義元が尾張に出兵する。後に云う桶狭間の戦いが開戦するのだが、この桶狭間の戦いにも可成は参戦している。驚くべき参戦率である。

 この様に森可成は一貫して信長に仕えあらゆる戦場を駆け巡った尾張統一の功労者と云える人物である。

美濃攻略から上洛、姉川の戦い

 今川義元を桶狭間にて討ち取るも、続く美濃攻略に信長斉藤義龍を攻めあぐねる。が、斉藤義龍が永禄四年に急死してから跡を継いだ斉藤龍興は織田の進攻を止めるだけの器量が無く、奢侈に耽り次々と離心していく重臣らを美濃出身で土岐氏に仕えた伝手から森可成、坂井政尚といった尾張仕え美濃衆が調略に奔走し、東濃から中農の土豪を斉藤家から離反させる事に成功する。そして最終的に西濃の西美濃三人衆(氏家直元氏家卜全)、稲葉良通稲葉一鉄)、安藤守就)が永禄十年、信長の稲葉山城攻めに内応し稲葉山城は落城、遂に美濃国も織田信長の統治下に入る事になるのである。

 尚、永禄八年に森可成は中農にある金山城(現在の地名は「兼山」)を与えられている事から、その功績の大きさを窺い知る事が出来よう。

 足利義昭を奉戴しての上洛では柴田勝家と共に先鋒を務め、三好三人衆や近江国守護の六角義賢らを攻略する(観音寺城の戦い勝竜寺城の戦い等)。この功で森可成は近江宇佐山城城主に栄転。

 その後、朝倉攻めの最中に突如、寝返った同盟国の北近江浅井家浅井長政と正面衝突したかの有名な姉川の戦いにて、通説によらば森可成は織田軍五段目、背後に佐久間盛信織田信長を置き浅井軍先鋒磯野員昌を食い止める働きを見せる。

三好三人衆、斉藤龍興、細川昭元らの出兵から本願寺決起

 姉川の戦いにて浅井長政の首こそ取れなかったものの小谷城の直下である横山城を奪取し、状況的な戦勝を収めた織田信長だったが、摂津国にて三好三人衆、かつて美濃国の国主であった斉藤龍興、細川京兆家当主である細川昭元細川信良)らが決起すると、信長はこの乱を鎮圧する為に摂津国へと出兵(野田城・福島城の戦い)。信長居城の岐阜城と連絡線を確保する為に森可成は居城、宇佐山城の守備を固めるが此処で本願寺信長に対して決起する(石山合戦)。更にコレに呼応する形で浅井長政朝倉義景が北近江から進攻を開始し信長本隊の背後を突かんとし(第一次織田家包囲網)、森可成は浅井朝倉連合軍の進軍を阻止して織田信長の退路を確保するべく、宇佐山城を出て近江坂本まで進軍する。森可成は信長の異母弟である野府城主織田信治らと合流して九月十六日、街道を封鎖。この地で森可成らは一万を越える浅井朝倉連合軍と槍を合わせる事となる(宇佐山城の戦い)。

 街道を封鎖した森可成らの兵数は千足らずで、しかも主力が信長と共に摂津へと出陣してしまっていた為、戦況は絶望的かのように思えた。が、九月十六日に行われた緒戦では俄に信じられぬ事に、森可成らによって浅井朝倉連合軍は撃退され、局所的な勝利を収めるに至っている。しかし石山本願寺の要請で浅井朝倉連合軍に比叡山の僧兵も加わり軍勢は三万人へと膨れ上がり、遂に衆寡適せず遂に九月二十日、森可成、織田信治青地茂綱らは悉く槍下に臥し討ち死にしてしまうである。森可成、元亀元年九月二十日没、享年四八歳。

 その後、戦勝に乗って浅井朝倉連合軍は城主、森可成が欠けた宇佐山城も攻めるが、宇佐山城は森家家老の各務元正が兵を掌握しており強固な反攻を行う。九月二十三日、折より情勢の連絡を受けていた信長は摂津国からの撤兵を完了。翌九月二十四日、森可成が戦死した近江坂本に陣を張り(志賀の陣)、森可成らの文字通り決死の遅滞行動から稼ぎ出した四日間で織田軍は退き口を成功させるのである。信長自身の後詰めで宇佐山城も落城せず持ち堪え、最終的に森可成らが街道を封鎖した九月十六日から行われた遅滞戦闘で得た貴重な七日間は、こうして辛くも織田家を救ったのである。

森可成の死後、子孫や森家の家督

 家督相続時より一貫して従事してくれた有能な臣である森可成を失った信長は大変に深く悲しみ、コレが比叡山焼き討ちの遠因に繋がる事にもなった。森可成は近江延暦寺の聖衆来迎寺に葬られたが、比叡山焼き討ちの際は森可成の墓所があるという理由で聖衆来迎寺は戦火を免れている。

 晩年の信長の小姓として本能寺にて戦死した事で知られる森蘭丸森成利)、森坊丸森長隆)、森力丸森長氏)は森可成の三男、四男、五男である。森可成の長男である森可隆は元亀元年、朝倉攻めの最中に初陣で戦死しており、次男の森長可鬼武蔵として恐れられた剛の者であったが、小牧・長久手の戦いで戦死してしまう。

 この通り森家は、

氏名家系没年死因
森可隆長男元亀元年(西暦1570年)戦死
森可成元亀元年(西暦1570年)戦死
森蘭丸三男天正十年(西暦1582年)戦死
森坊丸四男天正十年(西暦1582年)戦死
森力丸五男天正十年(西暦1582年)戦死
森長可次男天正十二年年(西暦1584年)戦死

 と、悉く六名が戦死している凄絶な家系図を持つ。最終的に森家の家督は、最後の男子である森忠政が継いでいるが、森可成の妻で兄弟らの母である妙向尼の悲しみは察してあり余る。

 唯、心血を注いだ価値があってと云うべきか本能寺の変以後、最終的に悉く没落する織田家家臣団にあって森家六男で家督を継いだ森忠政は川中島十三万石から美作国十八万石へと栄転しており、家名は明治に至るまで存続する事となる。

森可成に関連する史跡

聖衆来迎寺(滋賀県大津市比叡辻)

 森可成の墓所がある。

可成寺(岐阜県可児市兼山)

 金山城(兼山城)の麓にある森家の菩提寺。森可成から続く森家兄弟の墓所がある。余談ではあるが兼山歴史民俗資料館には森長可が使っていたとされる人間無骨のレプリカが展示されており、資料も充実して見応えがある。

兼山城跡

 森可成が初めて城主になった城の城址。当時の遺構を良く遺し虎口、籠城用の水の手、横矢を入れる土塁、搦め手や馬出しなどが良く見て取れる。

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