生涯
1985年6月12日生まれ。父ノノアルコ、母クニノキヨコ。主戦騎手は熊沢重文。
1990年の天皇賞(秋)では同世代のオグリキャップと生涯唯一の対決(オグリ6着・ダイユウサク7着。)
7歳(現6歳)となった1991年は、年明けの京都金杯(GⅢ)を勝利し重賞初勝利。
次の産経大阪杯はホワイトストーンの2着に入るなど、この年は重賞戦線で善戦するも、掲示板(5着以内)に乗るのがやっとという状態だった。
そして、1991年末の第36回有馬記念。
メジロマックイーンが圧倒的な1番人気に推された中で、ダイユウサクは15頭立ての14番人気だった。
しかし、調教師の内藤繁春は「これまでにない仕上がり」と判を押した。
レースは、当年秋の天皇賞を(繰り上がりで)制したプレクラスニーを最後の直線で抜き去ると、追い縋るメジロマックイーンを振り切り先頭でゴールイン。
フジテレビ実況の堺正幸は「ダイユウサクだ!ダイユウサクだ!これはびっくりダイユウサク!熊沢です!」と叫んだ。
さらに、2年前にイナリワンが記録したレコードタイムを1秒も更新する2分30秒6の新記録を立て、2003年にシンボリクリスエスが破るまでレコードタイムを保持していた。
ダイユウサクはその後、8歳(現7歳)となった1992年も現役を続けたが、以降は掲示板にすら乗ることもなく、スワンステークスを最後に引退。「世紀の一発屋」と呼ばれた。
現役引退後は種牡馬となるも、相手が集まらず産駒成績は振るわなかった。
1998年に種牡馬を引退してからは北海道にて余生を送っていたが、2013年12月8日に老衰のため28歳で死去した。