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福永洋一の編集履歴

2022-01-10 14:22:39 バージョン

福永洋一

ふくながよういち

JRA(日本中央競馬会)に所属していた元騎手。

概要

後に「天才」と呼ばれ、昭和の日本競馬界を代表することになる悲運の名ジョッキー。

『平成最後のダービージョッキー』こと福永祐一騎手の父親である。

1948年12月18日、高知県高知市の地主の家に、四男一女の末っ子として生まれる。

しかし実家は太平洋戦争後のGHQが発した農地解放政策などにより没落し、洋一出生時には非常に困窮していた。

父は放蕩癖があり、母は洋一が5歳の時に失踪。以降は姉によって育てられる。

その姉が当時高知競馬場所属の松岡利男騎手と結婚。これを機に福永家は競馬との繋がりができていくことになる。


来歴

少年時代・「夢」への決意

長兄・甲が中学卒業後に京都・武平三厩舎に入門、次兄の二三雄大井(後に調教師としてイナリワンを管理)、三男の尚武が船橋で騎手となり、一人残った四男の洋一はそのまま高知で父と暮らしていた。

しかし父は1957年に脳溢血で死去。これを受け、洋一は姉が嫁いだ松岡家に身を寄せた。以降の少年時代は、高知競馬場内の厩舎で手伝いをしながら過ごした。

1960年に中学校に入学すると、この頃から「将来は騎手になる」という目標を口にするようになり、中学2年の終わり頃には長兄・甲の師匠である武平三を頼って京都府に移り、後に馬事公苑でも同期生となる武永祥と京都市にある中学校に通った。

中学卒業を控えた1963年秋、永祥と共に馬事公苑騎手養成長期課程を受験、合格し馬事公苑騎手養成所に入る。


養成所時代・花の15期生

第15期長期騎手講習受講生として馬事公苑に入った洋一。この15期(1964年[1] - 1966年)に騎手講習を受けていた候補生は、後々中央競馬界でその名を馳せる名ジョッキーが名を連ねた。洋一以外で特に名前が上がるのは以下の3名。

  • 岡部幸雄:2007年に武豊が更新するまでJRA最多勝利記録を保持し、かの皇帝・シンボリルドルフに乗り中央競馬史上初の無敗クラシック三冠を達成した『皇帝の導き手』。
  • 柴田政人:GⅠ級競走15勝。こと3000m以上の長距離レースにおける騎乗の巧みさは「天才」と呼ばれた洋一を凌ぐとも評された『長距離の魔術師』。
  • 伊藤正徳:ダービーを含む八大競走2勝、重賞17勝。

後に「馬事公苑花の15期生」と称される黄金世代であったが、その一方で競走中に発生した落馬事故が直接の原因で2名が殉職、他にも落馬による怪我がもとで騎手を引退している人も数人居り、華やかさと同時にある種の悲劇性を持っている世代とも呼ばれる。

この中において3年の騎手課程と1年の浪人を経て騎手となった洋一。当時教官のひとりであった木村義衛氏は、


-騎手志望の人間には、運動神経が発達していて先天的に騎手に向いている達者型、努力によって騎手となる上手型の二通りがあるといえる。岡部幸雄と福永洋一は達者型、柴田はどちらかと言えば上手型だった。-

と語っている。


騎手デビュー・若さゆえの荒々しさ

1968年に東の尾形・西の武文と称された関西の名門厩舎・武田文吾厩舎の所属騎手としてデビュー。京都第3競走・4歳未勝利で初勝利を挙げた。

1年目から全国82位となる14勝を挙げ、関西新人賞・中央競馬関西放送記者クラブ賞を受賞するなど幸先の良いスタートを切ったが、この頃の騎乗スタイルは他馬に危険がおよぶような「粗雑で荒っぽい騎乗」という印象を周囲に与えるものであり、他の騎手からの評判は良くはなかったという。

1968年7月20日には競走中に大きく斜行して後続馬の進路を塞ぎ、騎手が落馬する事態を引き起こしてしまい、4日間の騎乗停止処分を受けた。この最中、他の騎手から洋一の騎乗についてたびたび苦情を受けていた武田厩舎の先輩騎手・栗田勝氏が騎乗の検証と、必要に応じて注意勧告を行うように依頼した。しかし粗雑に見える騎乗は、そのほとんどがぎりぎりの範囲ながら規則内に収められており、検証を行った当時の採決委員・筧丈夫氏は、


-勝利への最善を尽くしている現れであり、あとはモラルの問題-


という裁定を下し、注意勧告は行われなかった。


失敗と反省・天才の覚醒

2年目も順調に勝利を重ねていたが、5月4日の京都第7競走・つつじ賞で負担重量が不足したことで3ヶ月の騎乗停止を食らってしまい、さすがに堪忍袋の緒が切れたのか、師匠の武田文吾氏に追加で1ヶ月の騎乗自粛を言い渡されてしまう。

しかし、この自粛期間・自粛明けの札幌競馬での騎乗が洋一を大きく変える。

自粛明け当初こそ勝利したものの、自身より上手の騎手の騎乗スタイルを真似ていたせいで失速してしまう。伸び悩む洋一は次兄・二三雄に相談。そこで兄から、


-周りの騎手だって馬鹿じゃない。同じ作戦ばかりじゃなく、たまには逆をいってみろ—


と窘められる。以降、洋一は多くの競馬知識を身に付けつつ臨機応変・変幻自在な騎乗スタイルを見につけて良き、この年45勝を挙げ全国11位という大戦果をあげる事となる。

天才・福永洋一の覚醒である


天才の開花・リーディングジョッキーとして

3年目の1970年に入ると洋一の騎乗を希望する馬主が増加し、春先からリーディング争いでトップの位置を占めるほどになる。最終的には86勝を挙げ、初めてリーディングジョッキーの座を獲得。同年3月1日には京都4歳特別でタ重賞初勝利を挙げている。

1971年もリーディングを独走していたが、秋まで重賞勝利がなく、一部では「数でこなしただけの勝ち鞍漁り」とも揶揄されていた。しかし10月に入り神戸杯、京都新聞杯を連勝。11月の菊花賞でGI級レース・八大競走初制覇を果たした。この菊花賞の騎乗スタイルは洋一を「天才騎手」へと成長したともされている。同期の柴田政人はこの時の洋一を、


—これまでの洋一の騎乗は、荒っぽ過ぎると言って不評だった。それは自信の無さからくるものだったかもしれない。それがこの一戦で迷いが吹っ切れ、自分の騎乗方法に自信を持ったと思う。ラフだという評価もこの後は消え、その天賦の才能を大きく花開かせたのだ。その意味で、この一戦は洋一にとって凄く大きなものだった。—


と評している。

その後も破竹の勢いで勝利を重ね、以降9年連続でリーディングを獲得するという快進撃を続ける。1977年には野平祐二の記録を塗り替え当時最多の126勝、さらに翌年には131勝を挙げた。この間に八大競走で6勝を挙げるなど華々しい活躍を見せる。武豊氏の父親であり、「ターフの魔術師」と評された名騎手・武邦彦氏が、洋一が現役時代1度も関西リーディングジョッキーを取ることができなかったほどである。






進撃を続ける天才・福永洋一。

しかし1979年、この天才に悲劇が訪れる。






落馬事故・あまりにも突然の引退

1979年も順調に勝利を重ね、3月までに24勝を挙げリーディングのトップを独走し、3月4日には983勝目を挙げていた。


しかしその後の毎日杯に出走した際に悲劇が起こる。


レース最後の直線、前を行く馬が落馬事故を起こし、それに巻き込まれる形で洋一は背から落ちて馬場に叩き付けられ、頭を強打するとともに舌の3分の2以上を噛み切る重傷を負い、その場で意識不明の重体となってしまった。

直ちに馬場に待機していた救急車に乗せられて競馬場内の救護所に搬送され救命措置が行われた。しかし医師たちは洋一が脳に深刻なダメージを負っており、早く医療設備の整った病院で治療しなければ死亡する可能性が高い判断し、救護所での応急的な処置を終えると、直ちに関西労災病院に搬送された。


幸いにも一命はとりとめた洋一。しかし深刻な脳挫傷で重度の後遺症が残ってしまう。

一家総出で決死のリハビリを受け、1年後には自力歩行も何とかこなし、受け答えもできるほどに回復したものの、騎乗は困難と判断。事故から2年後の1982年に引退を発表。

競馬の一時代、その先頭を走っていた天才は、余りにも突然にターフを去ることになってしまった。

1984年には馬に乗れるまでに回復を果たし、家族や師匠の武田氏が見守る中、約5年ぶりに騎乗ができるまでになる。(しかし仮にこの時点まで引退しておらずとも、騎手ライセンスの更新には間に合わなかったといわれている。)



殿堂入り・悲運の天才

2004年には顕彰騎手として殿堂入りを果たす。

この時の選考基準は「通算勝利度数がおおむね1000勝」という少し気になる基準であった。これは洋一が983勝とわずかに1000勝にとどかず、されども洋一ほどの騎手を顕彰しないのはありえないという形で特別枠が用意されたものと見られている。


騎手・福永洋一の特徴:天才と一線を画す『異才』

天才・福永洋一の騎手としての評価を語る上で、関西競馬の名アナウンサー・杉本清の有名な言葉がある。


-洋一が落ちて、競馬は変わった。たった一人いなくなったぐらいで競馬は変わらないと言った人もいたが、やはり洋一が落ちて競馬は変わった。洋一中心にレースが動いていたのが、その中心が突然いなくなったのだから。-

-もし今も洋一が元気だったら、武豊や若手騎手たちと一緒に、どんな競馬を見せてくれただろうか。それを想像すると残念でならない。洋一がいなくなって、競馬が面白くなくなった面は否定できないと思う。少なくとも、洋一のように何をしでかすか分からないジョッキーはいなくなった。-


基本としての洋一の特徴として、

  • 競馬・騎手・レース・馬への膨大な知識
  • 自然体で美しい騎乗フォーム
  • 的確に展開を読み、精密機械の如く正確無比な位置取りをする判断力
  • 逃げから追い込みまで満遍なくこなす技術力

など、超一流の騎手としての技術の高さがあるが、そういった騎乗技術に増して、共にレースを駆けた多くのライバルや、当時を知る関係者が必ず口にする言葉がある。


-そういった、言葉では言い表せない、何か特異な、不思議な力を持っていた—


時に追い込み馬で逃げ切り勝利を収め、また逃げ馬で後方からの差し切り勝ちを収めるという普通では考え付かないような変幻自在の騎乗による勝利が洋一には度々あった。他にも「お世辞にも能力的に高くないと諦めていた馬でも、レースの内容が他の騎手を乗せていたときとは全然違う」と評されるような、馬の実力以上の力を引き出すような走りで勝利を収めている。

その騎乗の代表格にとしては

  • 本来差し馬であったはずが、中間地点で先頭に立たせ押し切った1971年の菊花賞のニホンピロムーテー
  • 直線で内埒沿いの極小のスペースを突破し、他の騎手に「内ラチの上を走ってきたのかと思った」と言わしめた1977年の皐月賞のハードバージ

などがある。

「馬主や調教師の当初の指示とは違う競馬をして、しかも結果を出してしまうものだから文句は言えない。どう乗ってくるのか、ゲートが開くまで調教師でさえ想像がつかない。」とされ、当時の競馬ファンの中でも洋一への信頼は非常に高かった(「一見勝ち目のなさそうな馬でも、洋一が乗るなら入着があり得るから馬券を買う」というほどである)。


洋一の後に「天才」の名を引き継いだのは田原成貴だった。

田原は自らの騎手としての特徴を「良く言えば感覚、悪く言えば狂気の部分」とした一方で理論家でもあり、「騎乗理論を説明した上で岡部幸雄や武豊のこの点が優れているということは言える」として、時々インタビューやエッセイで解説を行っていた。

そんな田原も、洋一については「説明できないレベルの物をひとつ持っていた」と評しており、自らが天才と呼ばれていたことについても「俺は天才なんかじゃない」と否定している。


岡部幸雄や武豊など、天才と呼ばれるジョッキーはいる。彼らは間違いなく天才である。騎乗理論を説明し、「岡部幸雄はここが優れている」、「武豊はここが天才的だ」と語ることができるのは福永洋一も同様だ。唯一彼らと洋一が違うのは「説明しろと言われても、説明できないもの」を持っていたことだ。


通算勝利数983勝・内GI級9勝を含む重賞49勝。その数字だけでは語れない『何か』を持っていたことが、福永洋一が天才・異才の名ジョッキーと呼ばれる所以である。



余談・東京優駿の夢

GIレースの中で洋一が最も欲していたタイトルがあった。

それが東京優駿日本ダービーである。

11年間というお世辞にも長いとは言えない現役期間の中で何度かダービーに挑む機会は少なくなかったものの、1978年の3着がベストリザルトとなってしまった。


しかし、その夢は『福永家の悲願』として、約40年の月日を経て、息子の手により、「平成最後の日本ダービー」の舞台で果たされることになる。


関連タグ

福永祐一:息子

岡部幸雄武邦彦柴田正人:当時の代表的なライバル。

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