1980〜1990年代にF1で活躍。
生涯65回のポールポジション、そして3度ものワールドチャンピオンを獲得。日本でもマクラーレン・ホンダの栄光の立役者としてバブル期のF1人気の顔となり、古舘伊知郎のつけた「音速の貴公子」のニックネームで知られていた。
記録だけを見れば他にも同等以上のドライバーは複数人いるが、その圧倒的なカリスマ性とドラマ性、そして悲劇的な最期から伝説となり、日本でも世界でも未だにF1ドライバー人気投票で必ず1位になるほどの人気を誇る。
甥のブルーノ・セナもF1ドライバー。
概要
本名、アイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva)。1960年3月21日にブラジルに生まれる。4歳のころにカートの運転をはじめ、13歳でレースに参加、1983年にイギリスF3に参戦してチャンピオンになり、翌年1984年にF1デビューを果たす。1985年ポルトガルGPで初勝利、1988年には初のドライバーズチャンピオンになり、以降1990、91年と3度のチャンピオンとなる。
卓越したテクニックで天才と言われ、史上最高のドライバーと言われる事も多いが、反面天才ゆえに他のF1ドライバーとの確執が絶えなかった。
特にアラン・プロストとは1988年から2年間はマクラーレンで同じチームであり、88年にマクラーレンは年間16戦中、セナ8勝プロスト7勝で計15勝するなど他を圧倒した。
しかし、翌89年もチャンピオン争いを二人が繰り広げ、それが激しくなるにつれて関係が悪化。日本GPではトップを争うさなか、二人は接触。これが原因でプロストはリタイアし、セナは失格に。結果プロストがチャンピオンになるなど、険悪を極めた。
翌90年、プロストがフェラーリに移籍しても対立は続いた。この年は前述の通りセナがチャンピオンを獲得しているが、その決定は、日本GPでスタート直後に接触し両者リタイアという、またしても後味の悪いものだった。
なお、現役時代からお互いにドライバーとしての実力は認めていたとされ、プロストの引退レースとなった1993年のオーストラリアGPで、二人はレース後に握手を交わして和解している。
その後は二人で仲良く会話するシーンも見られた他、後述のサンマリノGPでは、フランスでF1中継をおこなっているテレビ局が「練習走行中にセナが無線越しにコースを解説する」という企画をおこなった。この際セナは「アラン、君がいなくて寂しいよ」と無線越しに、テレビの解説者だったプロストにメッセージを送っていた。
1994年5月1日午後2時27分、第3戦のサンマリノGPのレース中にタンブレロコーナーで高速で直進してフェンスに激突。現場で気道切開手術が行われドクターヘリで緊急搬送されたが搬送先の病院で死亡が確認された。満34歳没。その葬儀はブラジルにおいて国葬となった。なお、直接の死因はフロントサスペンションのパーツが頭部を直撃したものとされ、事故直後の動画でもヘルメット上部が大きく破損しているのが確認できる。また一度は頭を上げようとしたが、直後に崩れ落ちそのまま事切れてしまった様子も残されていた。
この年のサンマリノGPは前日の予選2日目においてもシムテック・フォードのローランド・ラッツェンバーガーが事故死、さらにその前日である予選1日目にはジョーダンのルーベンス・バリチェロも大クラッシュで重傷を負うなど重大事故が相次いでいた。この事態を重く見た関係者は、選手会組織であるGPDAの再組織、マシンの安全性を高めるための大幅なレギュレーション変更、その後F1が開催された一部コースのレイアウトを変更するなど、緊急安全対策を取っている。
なお、一連の事故が起こったイモラ・サーキットのコースレイアウトは、翌年から事故が起こったコーナーを中心に大きく変更された。
日本において
彼が活躍した1990年代前半はホンダが参戦(セナは長い間ホンダがエンジンを供給するチームに在籍した)、日本人初のフル参戦ドライバー中嶋悟が登場したこともあり、空前のF1ブームになった為であり、セナはF1そのものの代名詞となった。
エンジンサプライヤーであるホンダとも蜜月関係にあり、ホンダの社長である本田宗一郎と会った際に、宗一郎の「お前のために最高のエンジンを作るよ」という言葉をかけられ、感動して涙を流す。その他、市販車のCMに出演したり、ホンダが作り上げたスーパーカー・NSXの開発に関わったりと、深い関係を築いた。また、マクラーレン・ホンダ時代の担当エンジニアであった木内健雄氏と最後に会ったときには「僕はまだ若い、まだ何年でも待っていられるから、もう一度ホンダに乗るよ」と、友情を誓い合っていた。
オフシーズンには日本のテレビ番組にも頻繁に出演し、中でもとんねるずの石橋貴明とのカート対決は名物企画となった。このとき、セナはわざとコースをショートカットして反則負けとなり、その罰として石橋に「鈴鹿で優勝したときにかぶったヘルメット」を贈呈することになった。その後にヘルメットが約束通り石橋のもとに届けられたものの、このときすでにセナはサンマリノGPで事故死した後であり、二人の再会は叶わなかった。石橋はその後「これはセナの魂が宿っているものだから俺がかぶることは出来ない」として大切に飾るだけにとどめ、カートレース対決を「セナの意思を継ぐ」として2年間継続した。
2022年現在、彼の記録はルイス・ハミルトンが更新しているが、彼もまたセナを尊敬する一人であり、イギリスBBCのテレビ番組「トップ・ギア」の企画でセナが乗っていたマシンに乗った際には感動の言葉を残している。セナは多くの人々の記憶に鮮烈に焼き付き、多くのプロドライバーが目指した人間の一人であり、今後もその人気が衰えることは無いであろう。
フィクションでの扱い
・週刊少年ジャンプは1990~92年までセナの所属するマクラーレンのスポンサーになっており、彼を主人公とした漫画『Fの閃光』(原作:西村幸祐、作画:長沢克義&鬼窪浩久)が連載され、1991年シーズンの戦いが全2巻で描かれた。
そのためか91年シーズンの鈴鹿サーキットのコースサイドには、いたるところに「週刊少年ジャンプ」の垂れ幕が設置されていた。
・ボボボーボ・ボーボボの悪名(?)高いキバハゲデュエルにおいてセナの名が登場。ボーボボは雑巾を発動した上で「アイルトンセーナー!!」と叫び、一回戦に勝利している。
…つまりどういうことかって?考えたら負けである。