嘉永5年2月5日、山口藩士宇多田正輔の三男として生まれた。
後に母方の祖父・寺内勘右衛門の養子となった。幼名を寿三郎という。
13歳の時に長州藩御楯隊に加わり、当時その幹部であった山田顕義や品川弥二郎らの指導を受けた。
後に整備隊に入り、函館戦争(五稜郭の戦い)に従軍。
明治維新後、兵部大輔大村益次郎に認められて大阪兵学寮に入り、明治4年に陸軍少尉となった。
明治10年の西南戦争では近衛大尉として出征し、田原坂の激戦で負傷し右手の自由を失った。
以後、偉材を惜しまれて現役に留まり、軍制面で活躍した。
明治39年に陸軍大将に昇進。
この間、陸相秘書官、陸軍士官学校長を歴任し、第一師団参謀長、参謀本部第一局長を経て、新動員令の制定、七個師団から十三個師団への拡張等に努めた。
明治27年には陸軍少尉に進み、明治29年に陸軍省軍務局長児玉源太郎の病気中、これに代わって軍務局長事務取扱となった。
この年の5月に兵制兵器各般の事項視察のため渡欧し、出張中に歩兵第三旅団長に補せられ、帰朝してその任に就いた。
明治31年、初代教育総監に就任し、下士制度を改正するなど功績を残した。
ついで参謀本部次長、陸軍大学校長を経て、明治35年に第一次桂太郎内閣の陸軍大臣に任ぜられ、続いて第一次西園寺公望内閣、第二次桂内閣と、およそ10年間その職にあった。
第二次桂内閣の時は、海軍大臣山本権兵衛と共に、日英陸海軍協定(日英同盟の基礎的要件)の締結に努めた。
日露戦争後、明治40年に子爵となり、明治43年の朝鮮併合の時は、初代朝鮮総督として武断政治を行った。
後、伯爵に昇り、大正5年に元帥となり、この年の10月、第二次大隈重信内閣の後を受けて組閣。
シベリア出兵を強行し、軍備を拡張し、大衆課税の増徴、言論弾圧を行い、その超然主義的態度は、軍閥政治、「非立憲内閣」として世論の批判を受け、大正7年の米騒動によって内閣は崩壊した。