演:矢柴俊博
概要
『仮面ライダーリバイス』の登場人物。主人公・五十嵐一輝が営む銭湯「しあわせ湯」の常連客。
妻は牛島公子が、息子に牛島光がおり、家族全員でしあわせ湯の常連客である(しかし……詳しくは後述)。
その一方、第8話では盗聴して五十嵐家の動向を探るような行動をする等、ただの一般人ではない様な不穏な空気を醸し出している。
第11話では家出した五十嵐さくらを家に招き入れたが、家具が最低限しかない上に、リビングの棚に一切物を置いていない等、全体的に生活感に乏しく、さくらも違和感を覚えていた。
正体
「ようこそ、ウィークエンドへ。」
その正体は地下組織ウィークエンドの構成員。しあわせ湯には、現状明確な理由は不明だが潜入しており、当然同組織の構成員である妻子(これも表向きで、実際は組織の上司・部下関係に過ぎず家族関係はない)も同様である。
組織での衣装はフォーマルなスリーピースに、足元はロングブーツ、スカーフは腕章のように左腕に装着するというスタイル。組織では代表である狩崎真澄の補佐に加え、有事には広報・勧誘といった組織の顔としての役割を担うなど、狩崎の右腕として辣腕を振るっている。(そんな彼がチームを組み拠点を構えてまでリソースを割いていたという点で、五十嵐家の監視がどれだけ重要な役割であったかが窺える)
地下組織の反政府活動家幹部という過激な経歴と素性ではあるが、五十嵐家の残酷な真実に気分を悪くしたように口元を隠したり、光が独断で仮面ライダーオーバーデモンズに変身し五十嵐3兄妹を救助した際には賞賛を送ったりといった様子から、真っ当な感性は持っている。
一方で一輝がバイスと一体化し暴走の危険性が出た際には問答無用でスタンガンを当て拘束、アギレラに纏わる32話及び33話では、さくらの「アギレラを救いたい」思いを「彼女は所詮デッドマンだ!」「今更人間に戻っても普通に生きる事はできない」と強く否定する、さくらの思いを叶えようとする狩崎の行い(あるいは狩崎の御子息のウィークエンド本部来訪)に少なからず不満の色を見せるなど、敵に対する排他的・好戦的な顔を見せている。
39話では構成員や避難民の鼓舞を行うなど指揮官として尽力。赤石の召喚したヘルギフテリアンやギフジュニア軍団による第9シェルター襲撃では、光が変身したオーバーデモンズが一蹴されたことを受けて、負傷した公子を見捨てより多くを救う非情な決断も厭わなかった。公子を失ったことで帰還後に食って掛かった光に対しても「根拠のない話をするな」「今のお前に救えたのか?」と冷酷とも思える言い方で切り捨てているが、本人曰く「これでも甘くなった」とのこと(事実、指示を出してから光が戻ってくるまでの間にウィークエンド司令室の設備が荒れており、描写こそされなかったが彼も公子の死に慟哭し設備に当たり散らしたと思われるあたり彼の苦悩が窺える)。
余談
- 演じる矢柴氏は仮面ライダーシリーズへの出演は本作が初だが、特撮作品全体としては『手裏剣戦隊ニンニンジャー』にて伊賀崎旋風役でレギュラー出演して以来6年ぶりの出演となった。
関連タグ
仮面ライダーリバイス ウィークエンド(仮面ライダーリバイス) 牛島家 しあわせ湯
以下ネタバレ
戦う理由と最期(ネタバレ注意)
赤石「これが本当の君の家族か。亡くなったのかね?」
「ああ。デッドマンズの汚い手にかかってな…」
赤石「愛すべきものを失って……さぞ辛かったろう」
「気にするな。過去のことだ……俺は未来しか見ない」
第40話でギフデモス化して襲いかかった赤石英雄の攻撃から光を庇う。その際に、本物の妻子をデッドマンズによって失っていたことが判明。戦う理由を明かしたあと、この攻撃が致命傷となり息子と呼ぶ光に悲願と未来を託して死亡してしまった。この行動がきっかけで赤石の他者への愛情を想起させ、見事ウィークエンドの仮面ライダーや避難民を逃がすための足止めに成功した。
余談
- 40話の放送日は丁度父の日であり、皮肉にもそんな日に本来の家族を思い出し、伝わる事の無い光への愛情を告げながら死亡してしまう太助の姿は多くの視聴者の心に刺さり、「何も父の日に死ななくても」「今日は父の日だってのに牛島パパ死ぬのかよ…」等の声が一部視聴者から聞こえた。
- 因みに40話の放送日に奇しくもYouTubeではニンニンジャーの旋風にまつわるエピソード「忍者すごろく決定版!」が配信されると言うタイムリーな事になっている。
- 40話での赤石に掴みかかるシーンは、矢柴氏のアドリブであった事を赤石役の橋本氏が自身のブログで語っている。
- 一方で演者の演技で入れ込む事が出来ても、ここまで牛島家全体に指摘されていた「圧倒的積み重ねの無さ」と「唐突さ」に関しては引き続き一定数の指摘があり、「もっと積み重ねがあれば感動出来た」と思う人も一定数居る。
- 特に、近年では心情等を想像出来ても、劇中で視聴者の想像じゃない確定的な何かを求める声も一定数ある為、上記の指摘になると思われる。