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共産主義インターナショナルの編集履歴

2022-10-18 11:48:31 バージョン

共産主義インターナショナル

きょうさんしゅぎいんたーなしょなる

1919年から1943年まで存在した各国共産党によって構成された、国際共産主義運動の指導組織。1919年3月にロシア共産党(ボリシェヴィキ)の呼びかけに応じて本部の置かれたモスクワに19の組織、グループの代表が集まって創立され、支部と位置づける各国共産党に対して指導と援助を行った。

共産主義インターナショナル(コミンテルン)公式讃歌

「コミンテルン讃歌(Гимн Коминтерна/ギィムン・コミンテルナ)」


「我々の任務は、労働者階級の革命的経験を統括し、

日和見主義及び社会愛国主義の朽ちかけた不純物を運動より一掃し、

真に革命的な国際プロレタリアートの全てのカを結集し、

それによって全世界に於ける革命の勝利を容易ならしめ、

且つ促進するにある。」

─1919年3月2日、国際共産主義者会議/共産主義インターナショナル(コミンテルン)創立大会に於ける宣言─

概要

共産主義インターナショナル/略称:コミンテルン・コミンターン(きょうさんしゅぎいんたーなしょなる/ロシア語:Коммунистический Интернационал/略称:Коминтерн[カムニスチーチェスキイ・インテルナツィアナール/略称:カミンテールン]〈英語:Communist International/略:Comintern〉)

別名:第3インターナショナル/略称:第3インター(ロシア語:III Интернациона́л/トゥリー・インテルナツィアナール)、国際共産党

など。

共産主義インターナショナルは、1919年から1943年まで存在した国際共産主義運動及び革命政党・組織の指導機関・統制組織である。

世界単一共産党「国際共産党」として世界各国に支部と位置づける各国共産党を設立し、指導と援助を行った。

かつての国際社会主義者大会(第2インターナショナル)で最左翼を占めたレーニンらロシア共産党(ボリシェヴィキ)旧・ロシア社会民主労働党多数派“ボリシェヴィキ”〕を中心として、その呼びかけに応じて本部の置かれたモスクワに19の組織、グループの代表が集まって創立された。

党名として「共産党を名乗ること」を原則として、イデオロギー的にはスターリンによって解釈された「マルクス・レーニン主義」、組織的にはボリシェヴィキの組織原則であった「民主集中制」の二本柱が各国共産党を拘束するものとされ、これに基づいて各国共産党のイデオロギー、戦略・戦術、行動様式、組織原則などが確立されていった。

これら世界各地のかつて世界に存在したコミンテルン支部は、100を超える各国共産党などの政党の真の起源となり、コミンテルンが存在した当時は、モスクワの執行委員会の決定への絶対服従を規定されていた。その為、これらの要件に当てはまる共産党は、コミンテルン生え抜きの共産党である確率が高い。

このようにコミンテルンは、かつての国際社会主義者大会(第2インターナショナル)に比べ、はるかに強固な国際的団結と規律をもち、ソ連という社会主義国家を支柱とするに至った。

コミンテルンは、その経緯からして各国の共産主義革命を支援しロシア10月革命を世界に拡大する事による世界革命の実現を最大の目標とし、とりわけドイツ革命と、それに続く欧州革命の成功を目指していたが、レーニン死後にスターリンが一国社会主義論を打ち出したことで役割が変わり、ソ連の外交政策を擁護する活動が中心になっていった。

第二次世界大戦中の1941年、独ソ戦の勃発に伴い、ソ連がアメリカ・イギリスと共に連合国を形成したことによって名実ともに存在意義を失い、1943年5月に解散した。



詳細

一些苏联时期宣传画+艺术画

  • 結成:1919年3月2日(国際共産主義者会議/共産主義インターナショナル創立大会)
  • 解散:1943年5月15日(共産主義インターナショナル執行委員会幹部会による共産主義インターナショナル及び共産主義青年インターナショナルの解散決議[6月10日に全機関の完全廃止])
  • 前身組織:国際社会主義者大会(第2インターナショナル)・ツィンマーヴァルト会議(ツィンマーヴァルト左派)
  • 後継組織:共産党・労働者党情報局(コミンフォルム/スターリン派《主流派》)、第4インターナショナル(FI/トロツキー派《非主流派》、左翼反対派)など
  • 執行委員会本部所在地:ソビエト社会主義共和国連邦ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国/モスクワ州/モスクワ市/ゴーリキー通り10番地「ホテル・ルックス」(通称:「世界革命参謀本部」)
  • 会員・参加数:57ヶ国・65の共産党/代表者510名が出席(1935年7月25日から開催、共産主義インターナショナル第7回大会)

…会員数・参加数の推移

1919年30ヶ国19党54名(創立大会)→1924年49ヶ国510名(第5回大会/レーニン死後スターリン体制最初の大会)→1928年57ヶ国532名(第6回大会/最大規模)→1935年57ヶ国65党510名(第7回大会/最後の大会)

  • 機関紙:インターナショナル新聞通報(インプレコール/英語:International Press Correspondence・略:Inprecor/ロシア語:Инпрекор/ドイツ語:Inprekorr)紙
  • 公式シンボルマーク:地球と鎌と槌

First Of May

  • 共産主義インターナショナル(コミンテルン)公式讃歌(1931–1943)

「コミンテルン讃歌(Гимн Коминтерна/ギィムン・コミンテルナ)」

《別名:労働者達の歌(Песня трудящихся/ペースニャ・ トルヂャーシシィスィヤ)》

[1番]

労働者よ、声を上げよ!

‌ ‌ 戦線へ加われ!

労働者よ、声を上げよ!

‌ ‌ 戦線へ加われ!

闘争へと前進せよ、前進せよ、前進せよ!

腕を組め!武器を取れ!

プロレタリアートよ、

‌ ‌ 自らの為に闘争するのだ!

プロレタリアートよ、

‌ ‌ 自らの為に闘争するのだ!

  • 政治思想

《基本》

左翼

極左

社会主義

共産主義

《前期》

世界革命論

永続革命論

マルクス主義

ボリシェビズム

《後期》

一国社会主義論

スターリン主義

ボリシェヴィズム

マルクス・レーニン主義

  • 政治目的

《前期》

ドイツ革命の成功

ロシア革命の世界革命への発展

共産主義思想の普及と活動家の育成

《後期》

ソビエト連邦政府の防衛

国際統一戦線及び人民戦線の形成

共産主義思想の普及と活動家の育成


歴代指導者

歴代最高指導者

ロシア社会民主労働党中央委員・政治局員(1898年3月 - 1912年1月)

ロシア社会民主労働党ボリシェビキ(多数派)中央委員・政治局員(1912年1月 - 1918年3月)

ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員・政治局員(1918年3月 -1924年1月)

(1924年-1943年)

ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会書記長・中央委員・政治局員・組織局員(1922年4月 - 1925年12月)

全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会書記長・中央委員・政治局員・組織局員(1925年12月 -1952年10月)


共産主義インターナショナル執行委員会議長

  • 初代:グリゴリー・エフセーエヴィチ・ジノヴィエフ(1919年-1926年)

ロシア共産党(ボリシェヴィキ)中央委員・政治局員

全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員・政治局員

  • 第2代:ニコライ・イヴァノヴィチ・ブハーリン(1926年-1929年)

全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員・政治局員

  • 第3代:ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(1929年-1933年)

全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員会第二書記・中央委員・政治局員・組織局員

全連邦共産党(ボリシェヴィキ)中央委員・政治局員

  • 第4代:ゲオルギ・ディミトロフ(1933年-1943年)

ブルガリア共産党中央委員会国外事務局委員


共産主義インターナショナル執行委員会副議長

  • ドミトリー・ザハロヴィッチ・マヌイリスキー(1935年-1943年)

ウクライナ共産党(ボリシェヴィキ)中央委員・政治局員


共産主義インターナショナル執行委員会書記長

  • ヴァシーリー・ペトロフ・コラロフ(1922年-1924年)

ブルガリア共産党中央委員会書記

  • オットー・ヴィレ(ヴィルヘルム)・クーシネン(1924年-1935年)

フィンランド共産党コミンテルン代表

  • ゲオルギ・ディミトロフ(1935年-1943年)

ブルガリア共産党中央委員会国外事務局委員


中央組織

共産主義インターナショナルを運営した中央組織。約1500人の職員が構成した。


執行機関

  • 共産主義インターナショナル大会

共産主義インターナショナルの最高機関。

各国の共産党の代表によって構成された。

コミンテルン全体を監督する機関である。大会は執行委員会が召集する。

政策の基本方針を決定し、国際共産主義運動の長期戦略の基本方向の決定の他、綱領、規約の採択と改正、指導機関として「主要な諸国の共産党の代表者1名で構成される」執行委員会を始めとした諸機関の委員の選出、当面の主要問題に関する政策についての戦術の決定などを行う。

だが、この最高意思決定というプロセスは極めて形式的なもので、実態は執行委員会幹部会及び書記局が組織全体を牛耳っており、その追認機関に過ぎなかった。

  • 共産主義インターナショナル執行委員会(IKKI/ИККИ)

言わずと知れた共産主義インターナショナルの最高指導機関。各国共産党の中央委員会もこの組織に習ったものである。

「主要な諸国の共産党の代表者1名で構成される」機関であるとされ、グリゴリー・ジノヴィエフが初代の議長となった。

「指導的機関、共産主義インターナショナルの政策に関わる重要な問題全てを解決する。

各共産党の最重要な活動に関する然るべき決定を行う。

社会政治闘争、世界の反ファシズム闘争の中心点について、共産主義インターナショナルの指導的機関は、主な具体的問題の全てに関し、各国共産党に命令を与える。」

とされ、コミンテルンの最重要組織と位置付けられた。

各国の共産党は、様々な問題を執行委員会に提出し、コミンテルンは必要に応じて職員を派遣していたのである。

しかしながら、執行委員会総会は、1935年7月25日から8月21日に開催された第7回大会直後の8月21日に一回だけ開かれ、幹部会会員と書記局員を選出して終わっている。

又、執行委員会拡大総会も1933年11月28日から12月12日に開かれた第13回会議を最後に一回も開催されてはいない。

つまり1935年以降の主要な諸問題はコミンテルン内では執行委員会総会では検討されてはいない。元々、執行委員会はさらに執行機関として執行委員会幹部会及び書記局を設置しており、第7回大会以降、重要な問題を執行委員会に代わって検討してきたのは、幹部会と書記局という2つの機関なのである。

  • 共産主義インターナショナル執行委員会幹部会

(当初の名前は「共産主義インターナショナル執行委員会小委員会(ビューロー)」。

後に「執行委員会常任幹部会」を経て「執行委員会幹部会」へと改組。)

政治的決定を行う為の政策決定機関 。

執行委員会の総会から総会の間のコミンテルンの組織活動を指導する機関で、コミンテルンの基本政策を決定する、事実上のコミンテルン最高指導部である。

  • 共産主義インターナショナル国際統制委員会(IKK)

各国共産党が持ち込んだ問題を裁定し、財政と規律問題を統轄する機関である。

1921年6〜7月のコミンテルン第3回大会において導入される。

その役割は、国際共産主義者の規律を監視すること、特にコミンテルンの公式路線からのどのような逸脱をも防ぐことであった。

  • 共産主義インターナショナル内務委員会

コミンテルンの政策決定を担う機関。


実務機関

  • 共産主義インターナショナル執行委員会書記局(ビューロー)

共産主義インターナショナルの実務組織のトップに君臨する機関。

1935年10月13日の執行委員会幹部会の決議により、執行委員会書記局は直接書記長の指導下に活動するようになった。

書記局は次のような役割を担っていた。

・コミンテルンの指導諸機関の会議の技術的準備(会議のための資料収集、会議までに資料を適時に発送すること、通訳の組織、その他)

・会議議事録作成と議事録抜粋を適時配布する事

・採択された決定をすべて収集する事

・指導機関により承認された文書の最終的なテキストを適時受け入れ、それらを各党らもしくは然るべき上下の諸機関へ発送する事

・コミンテルン機構内部の指導諸機関の決定を適時チェック、監視する事

・決議実施の進展に関し書記長に報告する事

・コミンテルン機構内の秘密活動の実行を監視する事

等である。

「コミンテルンいちばんのコケティッシュな猫」との異名を持つコミンテルン執行委員会情報部スカンジナビア担当諜報員アイノ・クーシネンは、

「1922年、私が初めてそこ(書記局)を訪れた時に見たものは、どう好意的に見ても、ロシアと外国のお喋りな知識人たちの混然とした集まり以上のものではなかった。」

と辛辣な評価を下している。

  • 執行委員会第一部

1942年に創設され、直接書記長に属する第一部は、コミンテルン執行委員会書記局秘密作戦技術連絡部として存在しつつ、コミンテルン執行委員会と各国共産党、在外連絡拠点との非合法無線連絡を指導し、幹部及び技術者の養成に従事した。

その他に、人、物資の海外への非合法移送と、海外に派遣される人物の為の文書を作成し、無線装置を準備し、暗号文書の処方箋(書き方)を準備し、軍事情報収集のための在外拠点の活動を組織し、指導した。

  • 国際連絡部(略:OMS/存続:1921-1939)

コミンテルンの最も秘密性の高い部署であった。

非合法連絡部、外国人連絡部とも訳される。

諜報、プロパガンダ、資金の配分等の活動を中心に行い、その他にソ連の参謀本部及び秘密警察(GPU、NKVD、MVD、等)との連携やビザ、公文書類の偽造などが挙げられる。

歴史家トーマス・L・サクマイスターはこう記述している。

「OMSは破壊活動や陰謀活動を調整するコミンテルンの部門であった。

その機能の一部は、ソ連の主要な情報機関であるOGPUとGRUの機能と重複しており、それらの諜報員がコミンテルンに配属されることもあった。

しかし、OMSは独自の活動を続け、海外の各共産党の中央委員会に独自の代表者を置いていた。」

2012年、歴史家のデイヴィッド・マクナイトはこう述べている。

「コミンテルンの陰謀的な仕事の最も激しい実用化は、その国際連絡組織であるOMSによって遂行された。

この組織は、密使活動や地下の政治活動を支援する仕事を引き受けた。

この組織は、金や手紙の輸送、パスポートやその他の偽造文書の作成、地下組織の技術的支援、例えば隠れ家の管理、偽装活動としての海外での事業設立などを行っていた。」

尚、1930年代の粛清でコミンテルン職員が大量に処刑された背景には、この組織と秘密警察との関係の不和があると言う。

  • 情報部

新聞、定期刊行物から世界各国の政治経済情報を収集、翻訳配布

  • 印刷出版部

外国語の翻訳と通訳の供給を担当し、通信社を通して、マルクス・レーニン主義問題、国際政治、平和運動、社会民主主義、ソ連の社会主義建設、赤軍、ソ連民族政策に関する論文などを発信した。

  • 煽動宣伝部

ラジオ放送を通して国際的宣伝を担った機関。

モスクワ放送(イノヴェシャーニエ)によってプロパガンダ放送を行う。

  • 人事部(Otdel kadorov)

全職員の政治的信頼度チェックを担う機関。

1932年の書記局の決議により執行委員会組織部人事局と特別部を土台に創設された。

人事部の機能には、コミンテルン幹部の登録・配置、共産党幹部を摘発から守るための措置の作成、ソ連に滞在していた政治亡命者間の政治活動の実行がある。

  • 組織部

いわば庶務

外国共産党の監視、専門家の派遣

  • 施設業務部

寮、車庫、食堂、ビル管理など、コミンテルンの施設管理を行っていた組織で、1941年8月21日に創設された。この組織はコミンテルンの解散まで機能した。

  • 執行委員会文書館(アルヒーフ)

コミンテルン内部の会議の速記録、公文書、機密文書等の文書を管理・保管する。ソ連崩壊後、新設のロシア現代史資料保存・研究センター等に所蔵資料を移管。1999年3月に研究センターが改称されて出来た、ロシア国立社会政治史文書館(ロシア語:Российский государственный архив социально-политической истории/略称:РГАСПИ[ルガスピ])において、その資料は現代にも受け継がれ、保存されている。

各地域支局

WORKERS OF THE WORLD, UNITE!

【ソ連・北欧】

  • 南部書記局

所在地:キエフ

  • スカンディナヴィア委員会書記局

所在地:ストックホルム


【ヨーロッパ】

  • 西欧書記局

所在地:ベルリン

欧州革命の中心として絶大な権威を誇った。

  • 東南書記局

所在地:ウィーン

後に西欧書記局に統合される。

  • バルカン書記局

所在地:ソフィア

  • アムステルダム臨時事務局(アムステルダム・サブビューロー[1919-1920年])

所在地:アムステルダム

書記:セバルト・リュトヘルス

極めて重要な補助機関として期待され、コミンテルン執行委員会によるアムステルダム・サブビューローへの資金援助決定額は在外ビューローのうち最高であった。アメリカ地域における活動を支えたことで知られる。


【アメリカ大陸】

  • 全米事務局(パン・アメリカ・エージェンシー)

所在地:メキシコシティ

議長:片山潜

ニューヨークの全米臨時事務局及びメキシコの中米書記局の合併により誕生。

  • 全米臨時事務局(パン・アメリカ・サブビューロー)

所在地:ニューヨーク

創設者:ニコラス・ハーウィチら数名

  • 中米書記局(ラテンアメリカ・ビューロー)

所在地:メキシコシティ

機関誌「共産主義ブレティン」

編集長ディアス・ラミレス

  • 南米書記局

所在地:ブエノスアイレス

1929年6月、ブエノスアイレスで開催されたラテンアメリカ諸国共産党第一回会議の中心となったと思われる。


【アジア】

・執行委員会東方部

所在地:モスクワ

主任:М.П.パブロヴィチ→フョードル・ペトロフ(本名:フョードル・ラスコーリニコフ)

コミンテルン第5回大会にて創設された東アジア地域全域の指導を行った統括機関。宣伝部を含む独自組織を持っていた組織で、活動範囲は、近東・中東・極東に分かれていた。

  • 極東書記局

所在地:イルクーツク→ハバロフスク・ウラジオストク→上海(東アジア事務局と統合)

初代議長ボリス・シュミャツキー

第二代議長グリゴリー・ヴォイチンスキー(コミンテルン創立期の実力者であり、中国研究家。東アジア事務局創設者。)

第三代議長パーヴェル・ミフ(モスクワ中山大学(正式名称:中国労動者孫逸仙大学)前学長。中国専門家として知られた。)

機関誌『極東諸民族』

・中国委員会(中国共産党の指導機関。)

・日本委員会(日本共産党の指導機関。)

・朝鮮委員会(韓人社会党、後の朝鮮共産党の指導機関。)

・モンゴル委員会(1924〜1932。モンゴル人民党、後のモンゴル人民革命党の指導機関。)

極東書記局は、「中国、日本、朝鮮、チベット及びモンゴルにおけるすべての共産主義事業と革命事業を調整する機関」として、上記の4つの国及び地域を担当する為に設置される。

100名弱の人員と自前の建物や付属の宿舎を有し、自動車や馬車、図書館なども保有していた。

1922年のコミンテルン極東諸民族大会開催の中心となった。

  • 東アジア事務局(極東書記局上海支局)

所在地:上海共同租界

創設者ヴィレンスキー・シビリャコフ、グリゴリー・ヴォイチンスキーら数名

議長イワン・スミルノフ(“シベリアのレーニン”と呼ばれた極東ロシアの革命家。シベリア革命委員会議長・ロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派シベリア事務局議長。)

各国支部

レーニン(列宁Lenin)同志

〔組織詳細〕

【ヨーロッパ】

西欧書記局(所在地:ベルリン)管轄地域

  • ドイツ共産党・共産主義インターナショナル支部(ドイツ共産党/共産主義インターナショナルドイツ支部。ドイツ語:Deutsche Kommunistische Partei・Sektion der Kommunistischen Internationale、DKP)

Marx-Liebknecht-Rosa Luxemburg

コミンテルンではロシア共産党(ボリシェヴィキ)に次ぐ大支部で、コミンテルン支局の中でも最大の規模を誇る西欧書記局を擁するベルリンに本拠地を置く。正に名実共にコミンテルンのNo.2と言っていい共産党である。まず、ドイツは全世界の国際共産主義運動にとって聖地とも言える特別な地である。科学的社会主義の祖であるカール・マルクスが、このドイツの資本主義社会が進みきった時にこそ革命が起きると予言した、正に本来の共産主義革命の出発点となる予定の場所だったからである。だからこそ世界中の共産主義者達はこのドイツでの革命に期待し、レーニンはこのドイツ革命の結実に「命を賭ける」と激を飛ばすほどで、ロシア革命はその(ドイツ革命)為の呼び水に過ぎないとすらしており、「(ロシア10月革命を呼び水とした)ドイツ革命と、それに続くヨーロッパ革命が無ければ、ロシア革命は『偉大な実験』で終わる。」と述べている(この予言はドイツ革命が失敗に終わった70年後にソ連が崩壊し、実験であった、と評されるなど奇しくも的中している)。そしてドイツ共産党の系譜もやはり共産主義運動の中では名門中の名門で、遡れば、1863年、社会主義者フェルディナント・ラッサールがザクセン王国首都ライプツィヒにおいて創設したドイツ初の労働者政党、「全ドイツ労働者協会」、及びカール・マルクスの支持者ヴィルヘルム・リープクネヒトとアウグスト・ベーベルによって、1869年にアイゼナハ大会で創設された社会主義政党である「社会民主労働者党(SDAP)」にまで溯る。この二党は後に1875年のゴータ党大会で合同し、ドイツ社会主義労働者党を結成。これが1890年のハレ党大会で改称したのが「ドイツ社会民主党(SPD)」である。ドイツ共産党はこの社民党左派が母体となっており、彼らは1914年から1915年にかけて、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルク、クララ・ツェトキンを中心として「国際派(Gruppe Internationale/グルッペ・インターナツィオナーレ)と呼ばれる反対派を形成し、後の1916年頃から国際派の出版した非合法冊子「スパルタクス書簡」に因んで、国際派は「スパルタクス団(スパルタクス・グルッペ/Spartakusgruppe)として知られるようになる。1919年には「ドイツ共産党・スパルタクス団」と改称、ここにドイツ共産党が成立する。彼らはコミンテルン結成の大会からコミンテルンに加入したロシア共産党(後のソ連共産党)と並ぶコミンテルンの古参政党となった。そしてその後には武装蜂起を行うも失敗し、ローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトを失うも活動を継続。その後は、アドルフ・ヒトラー総統率いる国家社会主義ドイツ労働者党ナチス党)と政権を巡って争うも敗北、一時は壊滅状態となる。終戦後に再建され、ソ連占領地域の社会民主党の組織と統合し、ドイツ社会主義統一党を結党。以来ソ連軍占領地域に建国されたドイツ民主共和国(東ドイツ)の一党独裁政党として君臨し、東西統一後は民主社会党と党名を変更、更に現在は左翼党と党名を変更して、ドイツ連邦議会の少数野党として活動している。


  • 共産主義インターナショナルフランス支部(フランス共産党/共産主義インターナショナルフランス支部。フランス語:Section française de l'Internationale communiste、SFIC。改称後:フランス共産党/フランス語:Parti communiste français、PCF。)

構成主義思想

前身はフランス社会党(正式名称:労働インターナショナル・フランス支部/フランス語:Section Française de l'Internationale Ouvrière、SFIO)左派で、フランス社会党は党書記長フロッサールと、党機関誌『ユマニテ(人道)』編集長カシャンらに率いられた党内親ボリシェヴィキ派が党内の2/3を占めたことで1920年12月のトゥール党大会においてコミンテルンへの加盟を決議し、党名を「共産主義インターナショナルフランス支部(SFIC)」に変更した。右派はこれに反発して後に脱退、労働インターナショナルフランス支部(フランス社会党)として活動を続行した。当初は「モスクワの長女」と称され、ソ連及びコミンテルンの意向に100%付き従う存在として知られたが、第二次世界大戦が始まると、1930年に党書記長になったモーリス・トレーズ書記長は、社会党・急進党ら左派政党と共に人民戦線と称される提携関係を樹立、後に祖国フランスを占領したナチス・ドイツの占領軍に対しては、党の地下組織をフル稼働させてゲリラ戦術を展開して徹底抗戦、当初からナチス占領軍将校の射殺を繰り返す激しい戦術を採用し、それに対するナチス占領軍側の弾圧も「疑わしきは処刑」と熾烈を極めた。これによりフランス共産党は一躍「銃殺を恐れぬ党」としてフランス中に勇名を轟かせ、フランス国内に確固たる権威を取り戻す。更にフランス共産党はその勢いに乗って「愛国主義とインターナショナリズムの融合」をレジスタンス運動におけるスローガンに掲げ、ド・ゴール派らブルジョアジーのレジスタンス組織とも協調すると共に、レジスタンスの大衆組織として「国民戦線」を結成し、主に中産階級の取り込みを図った。1944年にナチスを放逐した国民的なレジスタンス運動は、共産党の権威の高まりとあいまって「ブルジョアジーすら社会主義を希求する」と言われたような状況を現出させ、トレーズ書記長も率先垂範してレジスタンスの武装解除を命じ、資本主義体制再建に協力、フランス共和国臨時政府のド・ゴール政権では、トレーズが副首相として入閣した事で、その権威は更に高まった。その為、これら第二次世界大戦を通しての徹底的なフランスへの献身と忠誠の結果として、フランス共産党は、“共産党にも関わらず”「愛国の党」として知られるようになり、これはフランス共産党にとって大いなるアイデンティティとして確立される事になり、世界広しと言えども極めて稀な「愛国共産党」としての地位を得る事になる。近年ではシラク大統領政権下の1997年、ジョスパン社会党第一書記率いる内閣に参画した事もある、西側諸国有数の共産党である。後のベトナム労働党主席(北ベトナム、つまり現在のベトナムとその独裁政党であるベトナム共産党の前身の労働党における初代最高指導者)である若き日のホー・チ・ミンや、後の中華人民共和国初代政務院(後に改称して国務院)総理(=初代首相)兼中央人民政府外交部長(=外務大臣)となった中国共産党の最高幹部となる若き日の周恩来ら後年の共産主義陣営の大物達や、パブロ・ピカソやエリック・サティ、イヴ・モンタン、シモーヌ・シニョレら芸術家や俳優らも参加した事がある。


  • 共産主義インターナショナルイタリア支部(イタリア共産党/共産主義インターナショナルイタリア支部。イタリア語:Partito Comunista d'Italia - Sezione Italiana dell'Internazionale Comunista、PCI)

本部をローマ(ラツィオ州)に置き、トスカーナ州、エミリア=ロマーニャ州、ウンブリア州といった中部イタリアを基盤とし、戦後の1970年代には、約170万人の党員を抱え、1976年の選挙で34.4%の得票率を記録する、西側諸国における共産党としては最大の勢力を有していた「ユーロ・コミュニズム」路線を推進した、代表的な共産党。前身は1892年結党のイタリア社会党(PSI)で、社会党左派を母体とする。1921年、左派の派閥である「共産主義派(新秩序グループ)」は社会党を離れ、アマデーオ・ボルディーガの呼びかけにより、共産主義インターナショナルイタリア支部を結成する。しかし翌年1922年にベニート・ムッソリーニ率いる国家ファシスト党政権が誕生すると、即座に弾圧され多くの幹部を失う。弾圧の最中、党の指揮を執ったイタリア共産党初期の最大の理論家にして、「共産主義は民主主義のプロセスで実現するべき」という、後述のユーロ・コミュニズムと呼ばれる政治思想の基礎を作ったことで知られる、初代書記長アントニオ・グラムシもまた、投獄された後に命を落とす。その後はグラムシの友人のパルミーロ・トリアッティが書記長の座を継ぎ、第二次世界大戦の終わる直前にはイタリア北部を中心としたパルチザン(『ガリバルディ旅団』や『愛国行動部隊』など)の指導部となり、抵抗運動の主役として活躍した。戦後は王国政府と妥協して政権に参画し、入閣まで果たす。更に1946年には党員が230万人に達したとして、ギネスブックの「最大の共産党」の項目で共産圏以外で最大の共産党と認定され、西側諸国の共産党では異例の高い支持率を誇った。その後の1973年10月には、貴族階級出身のエンリコ・ベルリンゲル書記長の主導により、党綱領から「マルクス・レーニン主義」や「プロレタリア独裁」、「暴力的革命の達成」を放棄する独自の穏健化路線を推進。「ユーロコミュニズム」と呼ばれたこれらの施策は成功を収め、キリスト教民主主義との協力路線を打ち出し、「歴史的妥協」政策による連立政権の樹立を図って閣外協力を行うなどした。その結果、1975年に行われた議会選においては得票率が30パーセント台に伸び、首都のローマやボローニャ、フィレンツェをはじめとする地方自治体の長を数多く輩出し、世界各国から多くの注目を浴びた。その後1991年には左翼民主党へ改称し、1998年には左翼民主主義者へ、そして、左翼民主主義者が加入していた中道左派選挙連合である「オリーブの木」やそれを発展させた中道左派の政党連合「ルニオーネ(団結)」を更に発展・解消する形で「民主党」を結党し、イタリア共産党から続いた左翼民主主義者の組織は、その中核・母体として機能した。


東南書記局(所在地:ウィーン)管轄地域

  • オーストリア共産党・共産主義インターナショナル支部(オーストリア共産党/共産主義インターナショナルオーストリア支部。オーストリア語:Kommunistischen Partei Österreichs・Sektion der Kommunistischen Internationale、KPÖ)

1918年結成。1933年、ドルフース政権下で非合法化された。この措置はオーストリアがナチス・ドイツに併合された後も続いた。

第二次世界大戦後、カール・レンナー率いる暫定政権に加わった。

しかしソ連によって分割占領された地区があったにもかかわらず、共産党は勢力を伸ばすことができなかった。

その後、ソ連軍が撤退し、オーストリアは西側寄りながら永世中立国となると、共産党はますます勢力を落としていった。

特に隣国で起きたハンガリー動乱やプラハの春は共産党を支持する有権者に大きな動揺を与えた。

そのためユーロコミュニズム路線を採用したりしたが、党勢の衰退には歯止めがかからず、国民議会(下院)や州議会の議席も次々と失った。

東欧革命と冷戦の終結はこの傾向にますます拍車をかけた。

現在も国政レベルでは議席を有していない


  • 共産主義インターナショナルハンガリー支部(ハンガリー共産党/共産主義インターナショナルハンガリー支部。ハンガリー語:Kommunista Internacionálé Magyar Szekciója/Kommunisták Magyarországi Pártja、KMP)

クン・ベーラの指導の下、1919年3月にはハンガリー革命でハンガリー民主共和国を倒し、ハンガリー・ソビエト共和国を設立した。

しかし、共産党政権は介入してきたルーマニア王国軍とホルティ・ミクローシュ率いるハンガリー国民軍に倒され、地下に潜伏した。

その後成立したハンガリー王国においては、共産党は非合法とされていた。

しかし、1944年にハンガリーがナチス・ドイツ軍に占領され、極右の矢十字党が政権を握ると、他の野党と協力した。

1944年5月には、野党や労働組合などとともに「ハンガリー戦線」を結成し、ハンガリーの自由を求める運動を始めた。

そして同年末には、独立小農業者党、ハンガリー社会民主党、民族農民党と連立して、ダールノキ・ミクローシュ・ベーラを首相とするハンガリー臨時国民政府を樹立した。

戦後、ソ連軍の占領統治下でラーコシの指導の下で徐々に権力を握った。1948年、党は社会民主党を吸収してハンガリー勤労者党(後にハンガリー社会主義労働者党/Magyar Szocialista Munkáspárt、略:MSZMP)となり、一党独裁体制を築いた。

1989年には6月の中央委員会で複数政党制の導入を決定して一党独裁を放棄し、10月の党大会では「党の国家政党としての歴史は終わった」と宣言して「ハンガリー社会党」へ改名、1990年以降は欧州統合を推進する社会民主主義政党となった。

1994年、2002年、2006年の3度に渡り選挙に勝利し、連立によって与党となったこともある。


  • チェコスロバキア共産党・共産主義インターナショナル支部(チェコスロバキア共産党/共産主義インターナショナルチェコスロバキア支部。チェコ語:Komunistické strany Československa・Sekce Komunistické internacionály、KSČ)

1921年5月16日、チェコスロバキア社会民主党から左派グループが離脱して、チェコスロバキア共産党を結成。

第一次大戦後の独立国としては珍しく議会制民主主義が安定していたチェコスロバキアでは、共産党は野党として議会に参加しており、各種選挙で10%前後の得票率を獲得する、ソビエト連邦を除くヨーロッパ諸国で最高の支持を集める共産党の一つだった。

ナチス・ドイツによってチェコスロバキア併合が開始され、国家がドイツ保護領のボヘミア・モラビア保護領(チェコ地域)とスロバキア共和国に解体されると、共産党は直ちに非合法化された。

これに対し共産党は対独地下抵抗運動を開始。

マサリク初代大統領の時代の外務大臣にして第2代大統領であったエドヴァルド・ベネシュがロンドンで発足させた亡命政府に協力し、ナチス降伏の後に、戦後は彼らと連立政権を発足させる。

後に非共産党勢力が共産党に抗議して閣僚を辞すると、それを逆手に取って全権を掌握(2月の勝利)。

その後、1953年にノボトニーが第一書記に就任すると、対ソ協調路線を打ち出し、1956年のスターリン批判以後も一貫して存続した。

しかし、親ソ路線が破綻をきたすと、1968年の党中央委員会総会はノボトニーを更迭し、改革派のドプチェクを第一書記に選出した。

新指導部は党行動綱領の発表を行い、非スターリン化政策を推し進め、チェコスロバキアは一時期、東欧社会主義圏で最も自由が確保された国家となった(プラハの春)。

しかし、社会主義国の盟主ソ連はこれを反社会主義的であると非難。ブレジネフ・ドクトリンを掲げて同年8月ワルシャワ条約軍をプラハへ侵攻させ、ドプチェク路線を弾圧した(チェコ事件)。

その後は親ソ派政権へと戻るが、1989年の一連の東欧革命の中で、ベルリンの壁崩壊により鉄のカーテンの一角が崩れた事によって国民の民主化要求は一気に表面化した。

劇作家の民主運動家バーツラフ・ハヴェルを代表として反体制勢力が結集した市民フォーラムは民衆の支持を格闘し、デモを組織。

この民主化デモには共産党員も参加し、さらにドゥプチェクなどプラハの春当時の改革派指導者も加わった。

遂に政府は民主化勢力との妥協を決断。

アダメッツ首相は民主化の実施を発表し、選挙を通じた非共産政権への平穏な政権移譲を果たされた(ビロード革命)。

90年にはスロバキア側で共産党内の主流派が社会民主主義を目指す民主左翼党(KSS-SDĽ)と呼ばれる党内グループが発足。

1991年には党名を「チェコ・モラビア共産党=民主左翼党連合」へと党名を変更するも、その後1993年のビロード離婚を機にチェコ共和国のボヘミア・モラビア共産党(Komunistická strana Čech a Moravy/KSČM)とスロバキア共和国のスロバキア共産党(Komunistická strana Slovenska/KSS)に分党。

スロバキア共産党も主流派の党内グループ、民主左翼党(KSS-SDĽ)が脱退し、正式に政党として民主左翼党(Strana Demokratickej L'avince/SDL)を結成するに至る。

ボヘミア・モラビア共産党は現在でもチェコ共和国の主要野党として活動している。スロバキア共産党は近年では国政において議席を有してはいない。民主左翼党(SDL)は、現在スロバキア共和国の主要左派政党である。


【アジア】

・執行委員会東方部(所在地:モスクワ)

東アジア地域全域の指導を行った統括機関で、活動範囲は、近東・中東・極東に分かれていた。


極東書記局[及び 東アジア事務局](所在地:イルクーツク・上海)管轄地域

  • 国際共産党日本支部日本共産党日本共産党/共産主義インターナショナル日本支部。旧字体:國際共產黨日本支部日本共產黨[国際共産党日本支部日本共産党]として結党。現在の正式名称は「日本共産党」。)

紅き平等の国へ

共産主義インターナショナル執行委員会初代議長グレゴリー・ジノヴィエフが極東地域の共産主義者達がコミンテルンの指導の元に集まった極東諸民族大会の開会宣言で

「日本の革命無しには、極東におけるいかなる革命も比較的重要でない地方的な事件に過ぎない」

「日本における革命の勝利の後でのみ、極東の革命は、コップの中の嵐ではなくなるのだ」

と述べるなど、コミンテルンのアジア戦略は極東アジア諸国地域における唯一の先進資本主義国である日本の革命こそが全極東の民族的階級的解放の前提条件であるとされており、アジア地域の中で最もコミンテルンに重要視された支部である。

前身は、大正10年(1921年)4月、堺利彦・山川均・近藤栄蔵・橋浦時雄・渡辺満三・高津正道らによって結成された「コミンテルン日本支部準備会(日本共産党準備会)」。

1922年(大正11年)7月15日、東京府豊多摩郡渋谷町(現在の渋谷区恵比寿)の高瀬清の下宿にて、堺利彦・山川均・近藤栄蔵・吉川守圀・橋浦時雄・浦田武雄・渡辺満三・高瀬清の8名が会合をもち、非合法(治安警察法違反)に日本共産党を結成した(第一次共産党)。初代委員長は堺利彦。執行部として中央委員会を設置し、委員長兼国際幹事の堺利彦の他、総務幹事荒畑寒村・副総務幹事山川均・副総務幹事高津正道・橋浦時雄・近藤栄蔵・徳田球一の7名を中央委員に選出した。現在の日本共産党はこの会合を創立大会(第1回党大会)とし、この日付を創立記念日としている。尚、当時の党員数は100名余と言われ、堺利彦のマルクス・レーニン(M.L.)会、山川均の水曜会(田所輝明・西雅雄・上田茂樹・高橋貞樹ら、1921年活動)、暁民会(早大の高津正道・高瀬清が1920年結成)などのマルクス主義サークルのメンバーが集まっており、特に水曜会が中心であったとされる。その後、戦前、戦時中と政府によって弾圧され、途中コミンテルンの解散によって完全に自立した道を歩む。終戦後に合法化されると、戦後第1回の衆議院選挙で国政に進出。イタリア共産党の消滅後はフランス共産党を凌ぐ西側諸国最大の共産党にして、主要国家最大の野党共産党として、現在も国会において主要野党として活動中。

…共産主義インターナショナル日本支部日本共産党台湾民族支部

(台湾共産党/正式名称:國際共產黨日本支部日本共產黨臺灣民族支部)

1928年4月、上海にて結成。

前身は上海共同租界のマルクス主義研究サークル「マルクス主義研究会」。


…等。(鋭意更新中!)

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