ヒストリー番組で紹介される時の音
もう『寛容』せぬ
専制君主とはこうゆうことさ~
任務遂行のため(ローマ元首の治世)の目的を強化したものだ
ひざまずけけ愚民どもよ!!(ローマ人) ローマ皇帝を恐れおののけ!!
数年の統治もままならぬローマニアの愚民どもよ、覚悟してもらおうか
ん、『その態度は何様だと』 『皇帝様』だ死ぬ前に覚えておくがよい!!
今まではローマ神話以外も『寛容』であったが、これからはそうはいかぬ。
ローマ神話以外の宗教を許さぬ、これに反したものは即処刑に処す、
それと余と同じ『目線で生きること』は許さぬ、みな『ひざまつくがよい』
口答えするものは議員言えどもそく『死罪』である。『寛容』せぬ。
余が『座って良い』というまでは座ってはならぬ、座ったら『死刑』である。
CAESAR GAIVS AVRELIVS VALERIVS DIOCLETIANVS AVGVSTVS
44代 | ローマ元首 |
---|---|
皇帝名 | CAESAR GAIVS AVRELIVS VALERIVS DIOCLETIANVS AVGVSTVS |
読み方 | カエサル・ガイウス・ヴァレリウス・ディオクレアティヌス・アウグストス |
本名 | DIOCLES |
読み方 | ディオクレス |
誕生 | 244年12月22日 サロナ(属州ダルマティア) |
治世 | 284年11月20日 – 305年5月1日 |
権力 | 軍団から『皇帝即位』 |
統治 | 絶対元首・東方元首 |
補足 | |
属州民出身の軍団長。内乱に決着を付けて専制君主制を確立させた、また共同皇帝による東西分割を導入自らは東方正帝を務めた。 | |
崩御 | 311年12月3日 自然死 |
概要
軍団長元首時代、あるいは3世紀の危機とも呼ばれるこの危機的状況を、
皇帝たちは軍事力の強化によって克服しようとした。
- アウレリアヌス(270-275)は
軍制改革をより一層推し進め、
騎兵中心の軍隊を用いて崩壊の危機に瀕するローマ帝国を立て直した。
デュアルキアからテトラルキアへ
彼らの後を受けて現れたのがディオクレティアヌス(284-305)である。
彼は広大なローマニア]を一人の皇帝で統治するのは困難であると判断し、
元首に就くと帝国をまずはローマを東西に分断二人の『ローマ元首』でもって統治をおこなうようにした。
(デュアルキア)という
その後、東西2大元首2副元首によるテトラルキア(四分治制)を採用した。
そしてディオクレティアヌス自身はローマニア全体の元首、他三人の元首よりも『上級』の
ディオクレティアヌスは自身をローマ神話の主神ユピテルの子をなのり
まさに現人神をなのった。
『神』元首にふさわしい荘厳な儀式をし、ローマ人を圧倒した。
※ディオクレアヌス以外の『ローマ元首』も『神の子』を名乗る・・。
よってこの時代のローマニアは『神の子』が4人いた・・。
で発生していたバガウダエの乱が平定され、
ガリア駐屯軍により建設されていたガリア国家が倒され(296)
ローマニア領エジプトの反乱も平定されるなど、国内治安と辺境の安定に大いに治績があげられた。
ローマニアに60年ぶりに平和が戻ってきたのである。
ローマ市民重税地獄
その一方でこれらの事業を遂行するために彼は軍制を改革して軍隊を倍増し、
また経済面でも税制改革と最高公定価格の決定(301)という政策を行っている。
こうした一連の政策を執り行った後彼は治世の晩年になってある政策にとりかかった。
キリスト教徒大迫害
ディオクレティアヌス治世期は政府・軍内部のキリスト教徒が増加、
治世を通じて融和的政策を採っていた元首も、
その狂信性や軍務放棄、官吏・国教等統治への反抗に警戒感を抱き、
303年キリスト教徒に対する令を発した。
強制的な改宗を迫る等々キリスト教徒への抑圧が行われ、概ね寛容な処置に留まったものの、
国家に対し公然と反抗した一部急進派が処刑された。
その数はローマ全土で数千人を数えたという。
2度キリスト教徒による宮殿放火が企てられている。
キリスト教史を編纂する側は「大迫害」と呼ぶ。
退官
ディオクレティアヌスのテトラルキアでは305年に2大元首2人が退位することになっていた。
こうすることによって元首簒奪の内乱が起こることを防ごうとしたのである。
この深慮も実を結ばず、305年に『絶対元首』ディオクレティアヌスと
『2大元首』の1翼のマクシミアヌス(286-305)が退位して、
ローマ国家は再び内乱状態に陥ってしまう・・・。。
関連
絶対元首・・・皇帝にちかいローマ元首 『全ローマ元首』ともいう。