特徴
暖かい海で海草を食べて暮らすカイギュウ類から進化した寒冷適応型カイギュウであるステラーカイギュウ亜科に分類されるが、ほとんどが有史以前に絶滅し、本種が最後の種であった。より寒冷な海に育つコンブなどの海藻類を食べ、体を大きくして大量の脂肪を蓄えることで、寒冷な気候に適応していた。
現生カイギュウの中でも最大級で、体長7~8.5メートル・体重5~12トンに達し、現存する近縁種のジュゴンやマナティを遥かに上回る。
巨体を除く最大の特徴のとしては、成獣は歯が退化してほとんどなくなっており、上顎と下顎の先に登山靴の裏側のように細かい溝のついた固い角質の嘴のような板を持っていたことだ。
体に比べて頭は小さく、首も短くて胴体との境界はあまりはっきりしていなかった。目は小さく、口の周りには太い毛が生えていた。外から見た耳も非常に小さくあまり目立たなかったが、内耳の構造は発達しており、聴覚は良かったと考えられる。また、短いものの首の構造は非常に柔軟で、あまり体を動かさなくても広い範囲の餌を食べることができたと考えられる。
ひれ状になった前足は他の海生哺乳類と異なり、指の骨が完全に退化してなくなっていた。このことから、非常に高い水準で海中生活に適応していたようだ。この前足は体の中心に向かってかぎ型に曲がっており、骨格の構造から彼らはこの前足を前後に動かして、岩に付いた藻をはぎ取ったり海底を歩いたりしていたと考えられる
大きく平らな尾の先はクジラの尾のように二股に分かれていた。その体を包む黒く丈夫な皮膚は数多くのしわが刻まれ、厚さは2.5センチもあった。皮膚の下の脂肪層は、10~20センチ以上あった。これによって寒さから身を守ったり、氷や岩で体に擦り傷が付くのを防いでいただろう。
生態
現在のコマンドル諸島のベーリング島の周辺の浅い海に生息し、群れで行動していた。潮に乗って海岸の浅瀬に集まり、前述した嘴とよく動く唇を使って昆布などの褐藻類を食べた。近縁種と同様に食べたものはあまり噛み砕かず、非常に大きな腸でゆっくり消化していたらしい。冬になって流氷が海岸を埋めつくすと絶食状態になり、脂肪が失われて皮膚の下の骨が透けて見えるほどやせ細った。氷が流れ去るまで沖合いにいて、春になって氷がなくなると再び海藻を食べ始るが、この春の初めに繁殖活動に入り、1年以上の妊娠期間を経て1頭の子どもを産んだと思われる。子どもたちは群れの中央で育てられ、現生種と同様につがいや親子の絆はたいへん強かった。
おそらくほとんど潜水できず、丸く隆起した背中の上部を常に水の外にのぞかせた状態で漂っていた。こうして海水からでている部分を日光で暖めて、冷たい海水で下がった体温を調節していたと思われる。
発見当時、すでにコマンドル諸島などの限られた地域にしか生息していなかったが、10万年前の化石などから、かつては日本沿岸からアメリカのカリフォルニア州あたりまで分布していたようだ。日本では主に北海道北広島市や千葉県房総半島で化石が発見されている。
発見
1741年11月、探検家ヴィトゥス・ベーリングが率いるロシア帝国の第2次カムチャツカ探検隊の探検船セント・ピョートル号は、アラスカ探検の帰途、嵐に遭遇し、現在のベーリング島で座礁した。多くの乗組員は壊血病にかかっており、飢えと寒さにより、指揮官のベーリングを含む半数以上が死亡した。ドイツ人医師で博物学者でもあったゲオルク・ヴィルヘルム・ステラーが新たな指揮官となり、生き残った船員たちは座礁したセント・ピョートル号の船体から新しいボートを建造し、翌1742年8月に島を脱出。10ヶ月に及ぶ航海の末、当初の目的地であったカムチャツカ半島のにペトロパブロフスク港にたどり着き、英雄として迎えられた。
ステラーはこの遭難した島で、本種を発見した。彼らはそのカイギュウを捕まえ、1頭あたり3トンあまりの肉と脂肪を手に入れることができた。言うまでもなく、遭難中のステラーたちにとって、このカイギュウたちは有用な食料源となった。肉は子牛に似た食感で美味であるばかりではなく、比較的長い時間保存することができたため、彼らが島を脱出する際たいへん助けとなった。皮は靴やベルト、ボートを波から守るカバーに利用され、ミルクは直接飲むだけでなくバターにも加工された。脂肪は甘いアーモンド・オイルのような味がし、ランプの明かりにも使われた。本種の生息域でそれを有用に利用できたことで、ステラーたちは生還できたのだ。
10年後の1751年、ステラーはこの航海で得た、本種やラッコやアシカなどを含む数々の発見に関する観察記を発行している。こうして本種は発見者である彼に因んでステラーカイギュウと呼ばれるようになった。
絶滅
だが本種の話はすぐに広まったことで、その肉や脂肪、毛皮を求めて、多くの毛皮商人やハンターたちがコマンドル諸島へと向かい、乱獲が始まった。
彼らにとって好都合なことに、本種は動作が鈍く人間に対する警戒心ももち合わせていなかった。有効な防御の方法ももたず、ひたすら海底にうずくまるだけだった。このような動物を銛やライフルで殺すことは容易だったが、何トンにもなる巨体を陸まで運ぶことは難しいため、ハンターたちは本種をモリなどで殺しておいて、海上に放置した。出血多量により死亡したカイギュウの死体が岸に打ち上げられるのを待ったのだが、波によって岸まで運ばれる死体はそれほど多くはなく、殺されたカイギュウたちのうち5分の4が海の藻屑となってしまった。
ステラーカイギュウには、仲間が傷ついたり殺されると、それを助けようとするように集まってくる習性があった。特にメスが傷つけられたり殺されたりすると、オスが何頭も寄ってきて取り囲み、突き刺さった銛やからみついたロープをはずそうとした。そのような習性も、強欲で非情なハンターたちに利用されることになってしまった。
また、同地域に生息していた固有種の鳥類ベーリングメガネウも乱獲の巻き添えを喰らい、間もなく絶滅。ラッコやアシカといった他の海洋哺乳類も毛皮目的でハンターたちに乱獲されて激減し、ラッコのエサだったウニが大繁殖。その結果、ウニがステラーカイギュウのエサである昆布などの海藻を食べてしまったのだ。こうした生態系の崩壊も、本種の回復を大きく妨げた。
1768年、ステラーの昔の仲間であったイワン・ポポフ(マーチンの説もあり)が島へ渡り、「まだカイギュウが2、3頭残っていたから殺してやった」という余りにも冷酷非情な報告が、本種の最後の記録となった。ステラーカイギュウは、発見からたった27年で姿を消してしまったのだ。
だがその後もステラーカイギュウではないかと思われる海獣の捕獲や目撃が何度か報告されており、最も新しいものでは1962年7月のベーリング海でソ連の科学者によって6頭の見慣れぬ巨大な海獣が観察されている。だが、多くの人々がクジラか他の海獣と見間違えたのだと否定している。