ロシア皇帝号
- Божиею милостию Мы, NN, Император и Самодержец Всероссийский, Царь Польский, Великий Князь Финляндский и прочая, и прочая, и прочая
- 訳 神の恩寵により、全ロシアのツァーリにして絶対元首(サーモジェリジェッツ)、ポーランド王、フィンランド大公、その他、たる朕
※絶対元首・・・専制君主ともいわれる。
- ラテン語:Imperator et DOMINUS インペラー アト ドミヌス
- ギリシャ語:1.δεσπότης σεβαστός/2.αυτοκράτωρ/3.σεβαστοκράτωρ
- 1読み:デスポテース(ドミヌスのギリシア語)2セバストース/3アフトクラトール/4セバストクラトール
- 訳1:ドミヌス絶対者(世俗の主)
- 訳2: 1絶対者 2,4絶対元首/ローマ皇帝(世俗の超越者) 3絶対的軍最高命令
かつてローマ元首のディオクレアヌスが始めた絶対元首号(ドミヌスインペラー)は東ローマ帝国時代の『ローマ皇帝(ビザンツ皇帝)』の『全ローマのバシレウス(セバストクラトール)にして絶対元首』という表記となり、これに習い『全ロシアのツァーリにして絶対元首』としたものこれをまとめて『ロシア皇帝』と呼ぶ
ツァーリ・イムペラートル
- ブルガリア語:Цар ツァール
- ロシア語:Царь ツァーリ
もともとツァーリという称号は東ローマ帝国のローマ皇帝の称号のラテン語で『カエサル』がギリシャ語で『ツェザーリ』となったのを、スラブ人の言葉に変化させたものである。
後にロシアだけではなくロシアなどを構成するスラブ人などが『宗教用語』としてツァーリという言葉を取り入れた所から始まる(スラブ人つながりのブルガリアがでてくるのはそのせい、もともとはブルガリアの民が一番早くツァーリを使ったようだ。)
なのでもともとツァーリという言葉は『聖人』などに使われることが多かったようである。
ヨーロッパでのツァーリの地位
ヨーロッパ諸国でもツァーリという地位を『ローマ皇帝』とするべきなのか『大王』とするべきなのか諸国の貴族などで問題となったことが多い。というよりヨーロッパ諸国はあまりにビザンツ的なロシアの民をヨーロッパの仲間と見たくなかったのである。
ロシアの民とすれば『東ローマ帝国』直系の『ローマ皇帝』と同格にあつかえというのだろうが、中世ヨーロッパにはキリスト教ローマ帝国としての『神聖ローマ皇帝および神聖ローマ帝国』が存在していたので困惑するのであった
現在においては『ツァーリ』時代のロシアも『イムペラートル』時代のロシア帝国も全て『ロシア皇帝・ロシア帝国』にくくられるが、本来は『別次元』なみに違うものである。
ローマン・ジャイアニズム
ロシアがヨーロッパを見下す・見下すように見える姿勢はもともとは東ローマ帝国のローマ皇帝がヨーロッパ諸国などの『宗主国様』面していたような外交を行ったからである。ジャイアニズムである。
考えてみればかつてローマ帝国は地中海全域を支配していたのだから、当然ヨーロッパも全てローマニアだったからである。その時の意識が中世ヨーロッパ時代のヨーロッパの王侯貴族に向けられていたのである、結局東ローマ帝国から見るといまだにヨーロッパは一属州の一つ一つであったので、神聖ローマ皇帝やフランス国王という物もローマ皇帝より下の官職だと思っていた。
ロシアン・ジャイアニズム
その時のビザンツの『身ぶり手ぶり』をロシアは潜在的に行うのであろう。ロシアから見てもヨーロッパは格下だと思って・・・、ジャイアニズムを行う。
イムペラートル Император
大北方戦争にスウェーデン勝利したロマノフ家出身のツァーリピョートル1世は勝利の記念としてそれまでの『ツァーリ号』からローマ元首風の『イムペラートルИмператор』に切り替えた。
そして古臭い東ローマ帝国風のモスクワを離れ、近代ヨーロッパに負けない帝都としてスエェーデンから奪いとったバルト海・フィンランド湾沿岸のイングリアにサンクトぺテルブルグを建設させた、この町を作るのに数千万人のロシア人が奴隷的労働や建設中の事故に見舞われながらも、ピョートルは断固作り上げた。
サンクトぺテルブルグは1917年にロシア皇帝が退位しロシア帝国体制が消滅するまで帝都として君臨した。