鷹司輔煕
たかつかさすけひろ
鷹司輔煕とは江戸時代末期の公家。
プロフィール
経歴
文化4年(1807年)に誕生、文政元年(1818年)に従三位、嘉永元年(1848年)に内大臣、安政4年(1857年)に右大臣に就任した。翌年の安政5年(1858年)に日米修好通商条約では関白九条尚忠と対立、将軍継嗣問題では一橋派として付いた。同じく一橋派であった近衛忠煕と三条実万と共に勅書を水戸藩に提出、この件で安政の大獄で落飾した。
文久2年(1862年)に復帰し国事御用掛に就任した。翌年の文久3年(1863年)に関白に就任、同年に尊王攘夷の公家と長州藩を京都から排除する事件八月十八日の政変で関白を辞任、元治元年(1864年)の禁門の変では参朝停止の処分を下された。慶応2年(1866年)に孝明天皇が崩御、慶応3年(1867年)に明治天皇が即位し復帰したが王政復古の大号令で再び参朝停止が下されたが慶応4年(1868年)に赦免され議定に就任した。その後神祇官知事などを就任した。明治11年(1878年)に薨去した。
系譜
父:鷹司政通
母:家女房
嫡母:徳川清子(徳川治紀の娘)
妻:一条崇子(一条忠良の娘)
男子:鷹司輔政(1849-1867)
女子:鷹司治子(1848-1924)(三条実美室)
妻:家女房
男子:徳大寺公純(1821-1883)
男子:菊亭脩季(1857-1905)
女子:鷹司明子(1845-1878)(伏見宮貞教親王妃)
養子:鷹司煕通(実父は九条尚忠)