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国土回復運動の編集履歴

2024-06-14 12:41:08 バージョン

国土回復運動

こくどかいふくうんどう

「レコンキスタ」(再征服)の意訳。中世にイベリア半島に定着したイスラム教勢力をキリスト教諸王国が半島から駆逐した過程を指す。

概要

8世紀イベリア半島の大半を征服したイスラーム勢力を駆逐せんとするキリスト教諸王国による反撃・再征服活動の総称である。この活動によりイスラーム勢力は13世紀半ばまでに徐々に南方へ押しやられ、1492年のグラナダ陥落で滅ぼされた。


「国土回復運動」はスペイン語ポルトガル語で「再征服」を意味するレコンキスタ(Reconquista)の意訳。レコンキスタの呼称は日本でも一般的だが、ピクシブ百科事典では「レコンキスタ」の項目はアダルトゲームの記事に使われてしまっているため、歴史用語についてはこの記事で解説する。


レコンキスタの流れ

8世紀初頭、西アジアから北アフリカに急激に勢力を拡大したウマイヤ朝イスラム帝国は、711年にイベリア半島に上陸。西ゴート王国を滅ぼし、半島の大半を「アル=アンダルス」として支配下に置いた。


718年にキリスト教徒側がアストゥリアス王国を建てて反撃の狼煙を上げ、これがレコンキスタの始まりとなった。フランク王国バルセロナ制圧を経て905年にはバルセロナ伯がアラゴン王国としてフランク王国から自立、イスラム勢力の分裂に乗じてアラゴンと、アストゥリアス→レオン→レオン・アストゥリアス→カスティーリャのカトリック両王国が南方に勢力を拡大していく。


1031年にアンダルスのウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)が滅びると、アンダルスにはターイファ諸国と呼ばれる小王国が乱立し、キリスト教諸国のレコンキスタは勢いを増した。ポルトガルのカスティーリャからの自立とアルガルヴェ制圧(1249年)を経て、1251年にはグラナダのナスル朝のみを残し征服された。


ナスル朝グラナダ王国は、カスティーリャとアラゴンのカトリック両王の対立を利用する巧みな外交戦略により生き残り、繁栄を謳歌したが、カスティーリャ王国とアラゴン王国の連合が成立すると両王によりグラナダは滅ぼされ(1492年)、アル=アンダルスは終焉を迎えた(レコンキスタの完了)。


余談

レコンキスタ後に当地に残ったユダヤ教徒とイスラム教徒を炙り出す名目で行われたのがスペイン異端審問であるが、実際には金融業で富を蓄えていたユダヤ人の財産狙いの思惑が大きかったと言われている。


関連タグ

スペイン史 スペイン ポルトガル 宗教戦争 レコンキスタ

中世ヨーロッパ

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