概要
イソップ寓話の「狐と葡萄」から来ている、欲しいのに手に入れられないもの、その気持ちを隠す態度の例え。物語の詳細は親記事参照。
インターネットやフィクションでは
- 負け惜しみとその対象
- 周りに冷やかされないように、好きなのに手に入れられないものに興味がない振りをする行為(※意図があって本音を隠すのとは違う)
- 好きなものを手に入れられず、諦めるのが自分の愚かさを認めているようで恥ずかしいので、「対象が悪い」あるいは「元々対象に興味がなかった」と自分を納得させる行為
- 自分に向けられてないもの、自分が理解できないもの、それを愛好する人々に「自分に向けられたものよりも劣っている」「馬鹿の集まり」などのレッテル貼りをする行為
- 格好悪いツンデレ
などの意味で使われている。
注意
ごく稀にコンテンツの信者が、「不誠実」「バランスがおかしい」と極々真っ当な批評をすることに対し「ぶっ壊れキャラやアイテムが手に入れられなかったから」「最新環境についていけないから」「貧乏でガチャが回せないから」「自分には出来ないから」などと煽る目的で酸っぱい葡萄とレッテルを貼ることがあるが、酸っぱい以前にクソ不味いから寄り付いていない可能性があること考慮する必要がある。
大多数が喜んでいるのに逆張りしているなら酸っぱい葡萄かもしれないが、声の大きい少数が面白くても声の小さい大多数が批判しているならそれは持ち上げている少数の味覚がおかしいだけで、本来食えたものではないだけなのだ。(※この欄でいう「葡萄」とはコンテンツのこと)
ましてや「生えてるだけの葡萄=そのコンテンツが好きな者」や「最初から一部の層に売られているドリアンなどのマイナーフルーツ」ならともかく「甘いフルーツとして店に売っている葡萄が酸っぱい」のは十分にクレーム対象である。
そこで「この良さがわからないなんて!」と少数が持ち上げても大多数の口に合わなければ、結局改善の必要性がある。
少数派の為に現状維持を続ければ待っているのは破滅であり、それはその葡萄(=そのコンテンツが好きな者)も望むところでは無いだろう。
本当にそのコンテンツが好きならば肯定ばかりするのではなく、悪いところは改善を要請するのも重要なのだ。
誰だって「普通に食える奴もいる程度の酸っぱい葡萄」より「みんなが喜ぶ甘い葡萄」を食べたいに決まってるのだから(みんなが喜ぶものは作者も好きなため、理に適っている)。
ましてや「量より質の少数のファンがいる」「作者は自己満足している」という最小限の条件すら満たしていない酸っぱい葡萄は論外で、意見を受け入れないコンテンツは思考停止や謝ったら死ぬ病に近い。
クレーマーに、嫉妬とB専、甘いフルーツしか好まない(罵倒対象の)ミーハーとB専を同時に当て嵌めるダブルスタンダードもいて、甘いフルーツに群がるクレーマーには甘いレモン、烏合の衆などの別のレッテルを貼るが、自分の悪口量がクレーマーの悪口量を超えている矛盾が生じているのを一旦鏡で見る必要がある(クレーマーは葡萄が酸っぱいと言っているだけで、不細工な種族だの自分と同じ底辺しか好まない種族だのの差別用語は一切使っていない)。
嫉妬やツンデレにすら見られない酸っぱ過ぎるレモンは誰も食わない。