ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

毛利秀元の編集履歴

2024-09-14 00:21:35 バージョン

毛利秀元

もうりひでもと

安土桃山時代から江戸時代初期の武将・大名。

生没年 1579(天正7)年~1650(慶安3)年

官位 正三位 参議

毛利元就の四男・穂井田元清の長男として生まれる。


概要

天正13(1585)年に子供のいなかった毛利本家当主の従兄・毛利輝元の養子となるが、輝元が1595(文禄4)年に側室の二の丸殿との間に実子の松寿丸(後の毛利秀就)を儲けると家督相続を固辞し、1599(慶長4)年に長門などで18万石を与えられ独立大名となった。


文禄の役では14歳にして初陣。伯父の小早川隆景、従兄の吉川広家らとともに活躍。続く慶長の役でも奮戦した。

関ヶ原の戦いでは秀元自身には戦意があったものの、東軍に内通していた吉川広家に押し留められて戦うことはなかった。このとき出陣しないことを責められて苦し紛れに「弁当を食べさせている」と言ったことから「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。大阪城に帰還後は立花宗茂らとともに徹底抗戦を訴えたが、受け入れられなかった。


江戸時代には長府藩(山口県下関市)6万石の領主として西の守りを任され、広家らが引退した後は秀就時代の初期の執政を勤めた。しかし輝元が亡くなってからは、秀就との関係が悪化したため長州藩からの独立を画策したが、幕府の仲裁の後江戸に住み徳川家光の御伽衆となった。


長府藩はその後幕末まで続き、明治維新後は子爵に叙された。また秀元の長男・光広の孫・吉元は長州藩第5代、次男・元知の孫・重就は第7代藩主となった。



逸話

  • 腕力が強く、碁盤の上に人を立たせてそれを両手で持ち上げることができた。
  • 小早川隆景は秀元を器量に優れ、父元就に似ていると述べていた。
  • 江戸城に出仕した際弁当にの切り身を入れていた所、そのような「高価で珍しい魚」を羨ましがった諸大名が秀元に群がり、ほとんどを奪われてしまったという逸話がある。


創作では

戦国大戦


信長の野望



関連タグ

戦国武将 毛利家

毛利輝元 毛利秀就 小早川隆景 吉川広家

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました