ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

立花忠茂の編集履歴

2024-12-30 05:22:40 バージョン

立花忠茂

たちばなただしげ

立花忠茂とは江戸時代初期の大名。

概要

父は立花直次、母は永雲院(筑紫広門の娘)、筑後国柳河藩2代藩主、官位は従四位下、侍従、飛騨守


経歴

慶長17年(1612年)に誕生、生後間もなく伯父・立花宗茂の養子となる。

寛永14年(1637年)、島原の乱が勃発、当初は武家諸法度の規定により静観するも徳川幕府の命を受け、熊本藩佐賀藩福岡藩など諸藩と共に鎮圧に参加。一揆軍の籠城する原城を攻撃したが、指揮系統の乱れや実戦経験の無さが裏目に出て幕府軍は苦戦、幕府総大将・板倉重昌も無謀な総攻撃の末に戦死した。

翌年の寛永15年(1638年)、重昌の戦死を受け一揆鎮圧を命じられた老中松平信綱の補佐として、福山藩水野勝成らとともに養父・宗茂も島原に着陣、兵糧攻めの末に原城に総攻撃を掛け、忠茂も細川忠利率いる熊本藩兵と共に本丸へ攻め入る戦功を立てた。

同年、宗茂の隠居・剃髪を受け正式に柳河藩主となり、寛文4年(1664年)に隠居するまで柳河十一万石を治めた。

延宝3年(1675年)に死去。

長男と次男は早逝、三男・茂虎は側室の子だったため、正室・鍋子(法雲院、伊達忠宗の娘)の子である四男・鑑虎が家督を継いで三代藩主になり、父からの出家勧告を蹴って勘当させられていた茂虎は、兄の不遇に同情した弟・鑑虎によって引き立てられ、立花帯刀家の家祖となった。






外部リンク

立花忠茂 - Wikipedia


関連タグ

武家 江戸時代 立花氏 柳河藩

伊達騒動…継室が伊達忠宗の娘だったため、親類として大きく関わることになった。

立花種次…実兄。父・直次の跡を継ぎ常陸柿岡五千石、後に筑後三池藩一万石の大名となった。

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました