概要
父は立花直次、母は永雲院(筑紫広門の娘)、筑後国柳河藩2代藩主、官位は従四位下、侍従、飛騨守。
経歴
慶長17年(1612年)に誕生、生後間もなく伯父・立花宗茂の養子となる。元和8年(1622年)、徳川秀忠の御前で元服し、「忠」の一字を拝領して忠茂と名を改めた。
寛永14年(1637年)、島原の乱が勃発、柳河にいた忠茂は当初は武家諸法度の規定により静観するも徳川幕府の命を受け、熊本藩・佐賀藩・福岡藩など諸藩と共に鎮圧に参加。一揆軍の籠城する原城を攻撃したが、指揮系統の乱れや実戦経験の無さが裏目に出て幕府軍は苦戦、幕府総大将・板倉重昌も無謀な総攻撃の末に戦死した。
翌年の寛永15年(1638年)、重昌の後任として一揆鎮圧を命じられた老中松平信綱が島原に着陣し、江戸にいた養父・宗茂も出陣を命じられ、福山藩主水野勝成らと信綱の補佐に当たった。兵糧攻めの末に原城に総攻撃を掛け、忠茂も細川忠利率いる熊本藩兵と共に本丸へ攻め入る戦功を立てた。
同年、宗茂の隠居・剃髪を受け正式に柳河藩主となり、寛文4年(1664年)に隠居するまで柳河十一万石を治めた。
延宝3年(1675年)に死去。
長男と次男は早逝、三男・茂虎は側室の子だったため、正室・鍋子(法雲院、伊達忠宗の娘)の子である四男・鑑虎が家督を継いで三代藩主になり、父からの出家勧告を蹴って勘当されていた茂虎は、兄の不遇に同情した弟・鑑虎によって引き立てられ、政俊(直次3男)を祖とする「武の家」内膳家と並んで「御両家」として藩内の信望を集めた「文の家」立花帯刀家の家祖となった。