イギリスの危機感
第二次世界大戦終結後、イギリスでは労働党が政権をとり、軍縮政策が行われていた。
だがアメリカ・ソビエトは互いに警戒し、ナチスドイツの航空技術を吸収して年ごとに次々と新技術を開発していた。
かたや軍縮、かたや軍拡では差が付くのは自明であり、特に超音速戦闘機に至っては新規開発すら無いイギリスでは早晩太刀打ちできなくなるのは時間の問題となっていた。
そこで1947年、軍需省は『将来、戦闘機にも転用できる超音速研究機』をイングリッシュ・エレクトリック社やフェアリー社といった国内航空機製造社に依頼。かくして(色々な意味で)イギリス独自の戦闘機が生まれるのである。
『かっこいいスーツケース』の誕生
この仕様は「ER103」と呼ばれ、イングリッシュ・エレクトリック(EE社)P1とフェアリーFD2が製作され、基礎研究を始めることとなった。
とくにEE社はキャンベラ爆撃機に引き続きいてウエストランド社よりテディ・ペッター率いる設計陣を呼び寄せ、仕事に当たらせるという気合の入れようである。ペッターには超音速戦闘機を設計した経験こそ無かったが、設計は個性的で独特の考え方を持っていた。
だが設計にあたり、論争が巻き起こったのは「水平尾翼の位置」だった。
「水平尾翼は主翼より高くあるべきか、それとも低くあるべきか」
そこで検証するための実験機ショートSB5が製作され、ライトニング設計のためのデータを収集することになった。この実験機はのちのライトニングとよく似た平面形をしており、主翼の後退角や水平尾翼の位置を差し替えられるようになっていた。
実験の結果、設計はほぼ手直しが必要ないという事になった。
(翼外側に切れ込みを入れただけ)
1954年、ライトニングの最初の試作機が完成。8月4日の初飛行の後、3回目の飛行で音速突破を果たした。設計は確かだったのだ。しかも、アフターバーナーのない「サファイア」エンジンで水平飛行マッハ1.2。「初の超音速戦闘機」ことF-100に初飛行はその前年だから、この時点では決して遅れをとってはいなかった。
戦闘機への道
これに先立つ1952年、軍需省はフェアリーFD2との比較検証の結果、ライトニングP1を制式採用することが決まった。ライトニングには設計変更が加えられ、とくにエンジンは強化が加えられた。
とくにライトニングP1の2号機にはさっそく実戦装備を施され、1953年には本格的な戦闘機型が発注される。1954年には同規格の増加試作機ライトニングP1Bも20機発注。開発は大幅にスピードアップが図られ、1956年には最初の戦闘機型ライトニングF1が50機発注された。
「最後の有人戦闘機」
1957年にはP1Bの1号機が完成し、4月4日に初飛行を遂げたが、同日に英政府は『有人戦闘機の開発はこれで終了。以降は防空の主力をミサイルにする』という事を発表した。いわゆる「ミサイル万能論」の影響である。
もちろんこれはベトナム戦争で否定されてしまうのだが、当時のイギリスにしてみれば高額な開発費用を単独で負担するのは無理が大きかったのだ。結果、このBACライトニングはイギリス最後の独自開発戦闘機として記録される事となるのだった。
ミサイル=無人戦闘機?
当時は「ミサイルは戦闘機代わりになり得る」という考えがあった。
事実、ナチスドイツは防空戦闘機の補助として地対空ミサイルを開発していたし、当時はミサイルの射程・精度も年々高まるばかりだった。こうなると戦闘機の存在意義は「遠くから敵機をミサイルで狙い撃ちにする」ことが主となり、当時のアメリカではミサイル搭載量をウリモノにする戦闘機が次々に登場した。だがこの高い精度はあくまでテスト、「すえ物切り」の結果に過ぎないものであり、実戦の環境からはかけ離れたものだった。
ベトナム戦争では(機械にとって)厳しい自然環境のおかげで不具合・故障が続発し、ミサイルの存在価値を大いに損なった。加えて政治サイドからの「敵味方識別を厳にせよ」との命によって長射程ミサイルは完全に封印。かくしてミサイル運用能力に乏しいミグ戦闘機が跳梁し、ミサイル性能にモノを言わせたアメリカ軍機は駆逐されてしまう。
よくよく落ち着いて考えれば、敵味方の軍用機がニアミスする事態はいくらでも起こり得るものであり、出会い頭・とっさの時にモノを言うのは「最短射程のない武器」である。長い槍などは平原の合戦などでは有効な武器として働くが、逆に狭い屋内などでは邪魔になって力を発揮することが出来ない。それと同じことである。
というわけで、機関砲は有効な武装として復活し、現在に至る。
また、ステルスがより発達した暁にはどちらもレーダーに捉えることができず、したがってお互いに機関砲で戦う事になるのでは、とも言われている。
ライトニングの特徴
さて、このライトニングは非常に特徴的であり、中でも
・エンジンをタテに2連装する
・デルタ翼の一部を切欠き、そのまま後ろに移したような主翼・尾翼
のような点はトレードマークである。
この特徴について解説していこう。
縦型2連装エンジン
独特のエンジン配置だが、一応長所もある。
・胴体の形状変化をなだらかにするこができ、空気抵抗を抑えられる。
・もしエンジンが片方止まっても、機体がブレにくい。
当然短所もあり、これは
・整備の時は高い脚立が必要になり、不便。
・機体の重心が高くなり、離着陸の際は横転しないよう気を付けなくてはならない。
というものが挙げられる。
とくに本機の場合、胴体内部にはほぼエンジンしか収まらないほど「贅肉」をそぎ落としてあるため、車輪は主翼に備えている。胴体が縦に長いので細く・長い車輪が必要になり、特に着陸の時は折って壊さないよう注意しなければならない。
主翼
デルタ翼の一部を切り欠いたような後退翼は「空力的に意味の薄い部分を取り除いた結果」と言われており、これは後の『クリップトデルタ(翼端を切り落としたデルタ翼)』にも通じるものがある。実際、主翼の付け根は意外と長くとられており、見た目よりも高い強度で胴体に取り付けられているものと思われる。
英国を守る剣なり
BACライトニングは1960年から実戦部隊への配備が始まった。
(同年にEE社航空機部門もBACに吸収されている)
英国本土以外にも西ドイツやキプロス、シンガポールにも展開し、それぞれ防空任務に就いている。
絞り込んだ胴体と大出力エンジンの組み合わせは素晴らしい上昇力を実現しており、高高度からの侵入機も難なく追尾することが出来た。その上昇力はのちのF-15やSu-27にも引けを取らないものだったと言われており、まさに防空戦闘機になるために生まれてきた戦闘機である。
また、デルタ翼(の一種)のおかげで運動性も良好で、これはF-104やミラージュ3にも引けを取らない飛行性能と評価された。
受け入れられない英国流
ただし、このように迎撃戦闘機として特化した機体だったので、海外への輸出は芳しくない。
輸出成功はわずか2か国(クウェート・サウジアラビア)に限られており、その他の国への輸出はすべて失敗している。例えば西ドイツは国家による後押しが得られなかったため失敗し、日本への売り込みも書類審査だけで退けられてしまった。
西ドイツの需要
ただし、この失敗は政府が支援しなかっただけでもない。
この回の選定では西ドイツ政府はF-104を『戦闘爆撃機として』採用している。
詳しくは後に述べるが、BACライトニングは戦闘爆撃機にはおおよそ不適格な機体であり、特に搭載量が少なすぎる点などは「不合格」というしか無かったのだろう。
日本の需要
日本が代々求めているのは『航続距離の長い』迎撃戦闘機である。もはや理由は言うまい。
『名は体をあらわす』
さて、外国にはなかなか受け入れられなかったライトニングだったが、何が悪かったというのだろう。稲妻のように高速性能には自信があるというのに。
その一つは『航続距離が短い』という事である。
このライトニングは空気抵抗を抑え、高速性能を実現するためにかなり絞り込んだ設計をしている。そのことは『燃料搭載量が少ない』という欠点になり、結果として航続距離の短さとなって現れた。
燃料搭載を増やす試みは幾度となく行われていたのだが、エンジンのパワーアップやそれに伴う重量増加などで思うように航続性能には結びつかず、最後まで短いままとなった。
次に『機外搭載量がほとんど無い』のも要因だった。
高速性能のため犠牲にされたのは燃料だけではない。機首にミサイル(「レッドトップ」「ファイアストリーク」)を2発搭載する以外、何も搭載できないのだ。
これも後に問題となり、サウジアラビアへの輸出機は主翼外側へのハードポイント追加でなんとか対応している。
だが、前述の燃料の問題とあわせれば、増槽すら搭載できないのはなんとも苦しい。
という訳で、ライトニングF6では念願の増槽を搭載できるようになった。しかも主翼の『上に』搭載するという離れ業で。なんとも苦しい対処だが、翼下は車輪が納まっているので搭載できず、かと言って他にできそうな箇所も残っていなかったのだ。
フランス人の場合
なお、こうして「ご乱心」を起こすのはなにもイギリス人だけの特権でもなかった。
のちにジャギュアが国際共同で開発されるのだが、これのフランス仕様は主翼上にミサイル(マトラマジック550)を搭載することができるのだ。
ある意味、フランス人も他人を笑えない。
超音速の子持ししゃも
燃料搭載量の増加はライトニングP1のころから進められており、搭載量が増えるたびに腹部の膨らみが大きくなっていった。最終的には『かっこいいスーツケース』の名がどこかへ行ってしまうほどになってしまうのだが、むしろ「それがいいのだ」という御仁もいる。
『稲妻』の最後に
1960年から実戦配備に就いたライトニングはその後も本土防空の一線に留まりつづけ、1988年に最後の飛行隊が解散されるまでイギリスの空を守り続けた。
惜しむらくは飛行性能に性能を振り分けすぎ、使い勝手のよさには全く関心を払わなかったことだ。だが、そのおかげで防空戦闘機としての性能を高く買われ、長く使い続けられた事を考えれば、当時のイギリスとしては「よくやった!」といえるのではないだろうか。