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重巡洋艦の編集履歴2013/11/29 04:29:08 版
編集者:Ninjamita
編集内容:これに一番振り回されたのは

重巡洋艦

じゅうじゅんようかん

重い巡洋艦って書くから、きっと重い戦闘しかやらないよ、というわけではない

ロンドン海軍軍縮条約で新たに定義された艦種。

概要

6.1インチ以上8インチ以下の艦砲を搭載する10,000t以下の巡洋艦。

軽巡洋艦から大人の事情で派生した艦種

例え8インチの艦砲を運用出来る設計であっても実際に搭載している艦砲が6.1インチ未満であれば同条約の規定上重巡洋艦としては扱われない。この為「制限未満の艦砲を搭載して軽巡洋艦として登録しておき、条約失効後に艦砲を換装する」という形を取れば条約で規定されていた保有制限数を超えて重巡洋艦を保有する事も事実上可能であった。

実際に旧帝国海軍は上記の手段で保有制限数を超えた数の重巡洋艦の建造を行っていた(第二次世界大戦以前に結ばれた海軍軍縮条約での日本側の艦艇保有数がイギリスやアメリカに比べて低く設定されるのが常であった絡みもある)。

日本海軍における重巡の命名法について

命名は原則として山の名前が付けられている。ただし山か河川かの選択はロンドン軍縮条約で重巡洋艦・軽巡洋艦が定義されたときに慣習として始まったもので、明文化されてはいない

正確には、命名基準自体は明治38年8月1日に「帝国海軍艦艇の命名基準」として明記されており、その中で一等巡洋艦(重巡)は山岳名、二等巡洋艦(軽巡)は河川名となっている。しかし当時の一等巡洋艦は装甲巡洋艦、二等巡洋艦以下は防護巡洋艦であり、太平洋戦争の頃とは符合する艦種が違う。

その後装甲巡洋艦から発展した巡洋戦艦が登場し、日本でもそれに合わせていくつかの装甲巡洋艦が巡洋戦艦に格上げされ、自然と巡洋戦艦にも山岳名が用いられた。代表的な例が金剛型空母赤城である。

その後新たに生まれた重巡洋艦がかつての装甲巡洋艦と同じ地位(つまりは巡洋戦艦の代替)になったため、自然にこのような慣習が生まれた物と思われる。

因みに、軽巡が河川名になっているのはかつての防護巡洋艦の発展形だからである。

実際、書類上では一等巡洋艦、二等巡洋艦と言う風に記載されている。ただしほとんど死文である。というのも、古鷹型以降の艦の設計においては重巡洋艦を甲巡洋艦、軽巡洋艦を乙巡洋艦と呼んでおり、これが実戦部隊である連合艦隊でも定着したため、一等・二等と言う呼び方は廃れていった。さらに、昭和17年に海防艦の定義変更に伴い、旧式大型艦が一等巡洋艦に類別されたことから、完全に書類上だけの類別になった。

むしろこれに一番振り回されたのは何を隠そう金剛型である。ご存知のとおり金剛型戦艦は巡洋戦艦として完成した。つまり完成時は戦艦ではなく一等巡洋艦だったのである。その為、金剛型は当時の規定では、旧式な上に扶桑型以上の欠陥戦艦を差し置いて連合艦隊旗艦になることが出来なかった

尚、上記の通り命名基準が明確化されたのは明治後期の頃であり、それ以前に就役・命名された艦にはこの基準は当てはまらない(例えば、日露戦争で活躍した戦艦「三笠」は、奈良県にある三笠山からとられている)。

最上型について

最上型が本来軽巡洋艦の艦名である河川の名前であるのは、建造時は主砲の口径を8インチ(15.5cm)砲とし軽巡洋艦として竣工したため(つまり、軽巡洋艦の枠を使って重巡洋艦の砲塔以外だけを造っておこうというセコい手法に基づいたもの)で、実際ターレットリングの設計は最初から20cm連装砲を想定して設計されていた

当然、最上型の排水量が軽巡洋艦の枠を圧迫し、本来なら交代しているべき所謂“5500トン級”軽巡は刷新されないまま太平洋戦争に突入することになった。

ちなみに条約明けの重巡化改装の際に取り外した15.5cm3連装砲塔がそのまま大和型の副砲としてリサイクルされたのは有名な話。

利根型について

利根型も同様に当初「軽巡に見せかけた重巡」として計画され起工されたが、建造中にロンドン海軍軍縮条約の延長をめぐって決裂したため、条約明けの竣工となる利根型については当初から重巡洋艦として完成することになった。なお艦名は進水前に決定されているため、変更はされていない。

なお利根型は軍縮条約にのっとり旧式軽巡洋艦2隻の代艦として建造され、竣工にあわせて2隻の旧式軽巡が廃艦される予定だった。言うまでもなく天龍型である。しかし上記のとおり利根型2隻は当初から重巡洋艦として完成することになり、軽巡も不足するため天龍型の廃艦も撤回された。

…………あれっ?

と、気づいた人は鋭い。もう1隻だけ例外がいるのだ。加古である。

これはどうしてかと言うと、加古は実は八八艦隊計画で川内型軽巡洋艦4番艦として起工・進水までこぎつけたが、軍縮条約のために工事中止・解体処分となったのである。

その後、20サンチ砲級巡洋艦の計画時に、その1番艦にそのままスライドされた。

ところが、工事中に事故で完成が遅れてしまい、2番艦(古鷹)に追い抜かれた。

タイプシップと実際に先に完成した順が違う例は他にもあるが、艦型名がドサクサ紛れに変更されたのは古鷹型のみである。おそらくこれが、前述の慣例として始まった重巡・軽巡の銘名分別法につながったのだろう。

なお利根型や最上型、金剛型、空母の赤城加賀信濃のように、艦種が変わっても艦名が変更されないのは、日本では「軍艦の名前は天皇陛下から頂いた有難い名前」であるため(実際には明治中頃以降は艦が増えたため海軍から案を出して陛下の採決をもらう形だったが)。なお祥鳳型などは艦名が改装前と変わっているが、これは日本海軍では駆逐艦以下の補助舟艇は1隻で“軍艦”とみなさなかったためである(だから艦首に菊の御紋もついていない)。

日本海軍の性癖の象徴

重巡洋艦という艦首を確定させたのは実は日本海軍の古鷹型である。重巡洋艦の役割は主力艦(戦艦)の周りに相手の駆逐艦や水雷艇がウロつかないように、軽巡洋艦を砲火力で圧倒し敵水雷戦隊を撃滅するのも目的であった。

条約の制約下では火力、速力、防御力など全てにおいて満足のいく巡洋艦を設計するのは難しく、兵装や装甲を削減せざるを得ない場合もあった。そのため重量物であり危険物でもある雷装をやめる選択もあった。1930年代に入ると、アメリカ海軍などでは軽巡洋艦からすら雷装はなくなっていった(最上型に対抗して建造されたブルックリン級にはすでにない)。

重巡の走りになった日本海軍自身は雷撃にこだわり重巡洋艦にも比較的多くの雷装を搭載した。伝統というよりもはや完全に性癖フェチ病気の範疇である(雷装のない巡洋艦の設計に不満を持ち、設計変更に応じない平賀譲を海外視察に送り出してその留守中に藤本喜久雄に雷装を搭載するよう設計変更させたのは最も顕著な例)。

もっとも日本巡洋艦の雷装は何度も連合国の巡洋艦部隊を痛い目に合わせている。

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