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民主党(日本)の編集履歴

2013-12-02 14:22:04 バージョン

民主党(日本)

みんしゅとう

1996年(平成10年)4月、院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)に参加していた旧民主党・民政党・新党友愛・民主改革連合が合流して結成された。自民党に変わる政権政党をめざし、国家主導社会から市民主導社会へ官僚政治から政治主導への転換。行政の刷新。憲法の尊重など。

日本において「民主党」という名前の政党は複数存在する。ここでは「民主党」そのもの以外の「民主」と名のついた政党は割愛する(自由民主、民主自由、社会民主、等)

  • 日本民主黨 1947年に芦田均を総裁に結党した中道保守政党。与党日本社会党と国民協同党などと連立政権に参加。社会党政権が崩壊した後は跡継ぎで民主黨首班で総理をだした。1950年解散。
  • 日本民主党 1954年に鳩山一郎ら与党自由党に対決するために結党した保守政党。総裁は鳩山一郎。党綱は日本国憲法の改正。再軍備。など。1955年に当時同じ保守与党だった吉田茂総理総裁率いる自由党と合同〈保守合同〉し自由民主党となった。
  • 民主党鳩山一郎の子孫鳩山由紀夫と社民連代表管直人が共同代表として結党した中道的政党。(平成8年~平成10年4月)その後院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)に参加していた旧民主党・民政党・新党友愛・民主改革連合が合流して結成された政党。自民党に変わる政権政党をめざし、国家主導社会から市民主導社会へ官僚政治から政治主導への転換。行政の刷新。憲法の尊重など。

民主党(続き)

その後民主党は小沢軍団率いる自由党と合同。キャッチコピーは小沢一郎が考案した「国民の生活が第一。」と菅直人が考案した「元気な日本を復活させる。」をキャッチコピーとする。そして2009年の総選挙で自民党に圧勝。戦前・戦後政治史上初めての選挙による圧倒的非保守的政党による政権交代が起こった。その後鳩山由紀夫内閣が発足し国家戦略室や事業仕分けなどの政策を推進したが、普天間基地問題が致命傷となり。わずか8ヶ月で崩壊。その後管直人が党代表に選出、総理大臣となったが。。就任半年目で東日本大震災に見舞われた。管政権は震災への対処で手一杯となってしまい改革は進まなかった。管政権は1年5ヵ月で終結した。その後野田佳彦が党代表に選出された。

野田佳彦総理から増税路線へ舵を切る。これまでのマニフェストでは民主党政権では税金は上げないと明記していたのだが、とうとう異に背いてしまった。これには民主党初代の総理鳩山由紀夫陣営や小沢一郎陣営などの反発が起こり、旧鳩山内閣側関係の議員は増税案に反対票を投じたようである。その後民主党執行部(野田陣営)からの制裁として鳩山は6カ月党員資格停止(3カ月に減刑)小沢一郎元幹事長と陣営の議員は民主党を離党7月11日に小沢一郎を代表として政党国民の生活が第一を結成、11月に日本未来の党となった。さらに日本維新の会にも離党者が移籍ラッシュとなった。

2012年12月16日行われた衆議院選挙で政権担当時の数々の失策と多数の離反者が出た事で

大敗北を喫し、現職閣僚が8人も落選するという前代未聞の事態に至った。ここに政権担当はわずか3年あまりで終了し自民党に再び政権を明け渡し、野田代表は辞任した。

海江田民主党

衆参総選挙に大敗北後、収拾がつかぬまま党代表選をし海江田万里が党代表に選出された。海江田代表は「聴く・歩くプロジェクト」を実行し民主党の信頼と立て直しを同時に行うことになった。民主党内では前幹事長の細野剛志議員がみんなの党と維新の会と新党を決せするのではないかという警戒などがあり、自民・公明との三党合意などでの会議でも存在感も示すことはできなかった。「特定機密保保護法」などでは政府・自民案に対し対案をだし、「反対」の指針を出したが。しかし、まだ野党第一党の存在感を示せたとはいえなかった。

ネット上の評判

ネット上では特に評判の悪い政党の一つ。何かにつけて行き当たりばったり、議員の烏合の衆っぷり等々が影響してか、右派と左派双方の悪いとこ取りを体現したかのような政党である。

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