戦国時代とは、中央政府が機能せず地方政権同士が権力や所領などをめぐって互いに長らく争いあった時代をいう。
戦国時代という単語が指す対象は主に以下の2つである。
2.日本の戦国時代→本稿で解説。
概要
日本史上、中世から近世へ変わる時代に当たる。室町時代の後半から安土桃山時代の初め、あるいは江戸時代の初めごろを指す。室町幕府の力が衰退し、諸国に戦国大名と呼ばれた有力な武士が出現して自らの力で支配者となった時代である。
よく誤解されているが日本の戦国時代は、国が分裂して各地に王が出現して互いに争った中国大陸の戦国時代とは違う。日本の戦国時代においては京都に天皇と朝廷があって、その定めた暦や官位等は全国共通のものが使われていた。また大名の相続や争いを将軍が上位権者として調停するのも珍しくなく、すなわち国が分裂していたというと語弊がある。ただし、実態として諸国の統治は将軍や天皇の命令によらず、戦国大名たちが自らの判断で統治し法律も自ら定めていた(分国法)。それゆえ戦国時代と呼ぶのである。
このように書くと、戦国時代とは大名が主役であって家臣たち領民たちを率いて互いに争った時代と単純化できてしまう。しかしそれは実像ではない。加賀国を支配した一向一揆を代表として、戦国時代は惣国、惣村あるいは自治都市といった、国人や村落・都市住人らによる一揆と自治共同体の時代でもあった(池上裕子『戦国の群像』pp.13)。池上によれば、大名の支配もこの自治共同体の一定の自律性を前提として成り立っていた。大名だけでなく、下級武士も農民も商人も自らの力が及ぶ範囲において主権者であった時代、それが戦国時代なのである。
時代区分
戦国時代の始まりは応仁の乱の勃発(応仁元年、1467年)あるいは明応の政変(明応2年、1493年)とされる(山田邦明『戦国の活力』pp.18)。その間数十年の差があるが、それは戦国時代がある事件で突然始まった訳ではないことを示している。応仁の乱は確かに室町幕府に大きな打撃を与えた。十年の戦乱によって京都は荒れ果て、守護大名たちは続々と領国に帰国して一族との相続争いや国内の反乱対処に追われて将軍の命令をきかなくなる。しかし、応仁の乱が勃発した頃は幕府高官の見慣れた小競り合いに過ぎず、室町の世が終わるような社会的変化などまだ起こっていなかったのである。明応の政変は奉公衆の解体とそれによる将軍権力の失墜と捉える事が出来る。それまでの将軍はいかに遠国では戦乱が起ころうとも奉公衆という強大な軍事力を有する畿内の主権者であったが、この事件によって軍事力を失って細川家とその家臣たちの傀儡へ落ちてしまった。
戦国時代の終わりは、さらに諸説ある。信長の上洛(永禄11年、1568年)や将軍義昭の追放(天正元年、1573年)、北条氏滅亡(天正18年、1590年)、大坂夏の陣(元和元年、1615年)等である(山田邦明『戦国の活力』pp.18)。これも戦国時代の終わりをどうとらえるかによって解釈が変わってくる。織田信長は、初めて室町幕府に代わって天下を支配しようとした人物であると言われる(本郷和人「織田信長」『人物を読む 日本中世史』)。信長政権の誕生をその上洛や信長による将軍義昭追放と考えれば、確かにそれまでの戦国時代とは違う時代、すなわち安土桃山時代がここで始まっている。しかし、東国でも西国でも、信長の威令が及ばない地域では依然として戦国時代の諸大名の争いが続いていた。豊臣秀吉が小田原攻めで北条氏を滅ぼし、伊達政宗ら東北地方の大名も従えたことは、諸国の大名が秀吉の許しなく勝手に戦争を行えなくなったことを示す。しかし、秀吉の死後には関ヶ原の戦いに代表される大名間の争いが続いたのも事実であり、その争いの勝者として将軍となった徳川家康が最後まで従わなかった豊臣秀頼を滅ぼした大坂夏の陣をもって戦国時代の本当の終わりと呼ぶことも出来よう。
ここでは、応仁の乱から大坂の役までの、広義の戦国時代を解説する。
時代の特徴
応仁の乱から続く戦の連鎖によって「花の都」とうたわれた京都は荒廃し、多くの文化人や僧侶が、治安の悪化と食料の確保に困難となった京都から逃げだし各地へと散逸した。将軍と幕府の威信は急落する。乱は守護たちの本国に飛び火し、守護たちは京都を捨てて任国に下ってしまう。将軍が畿内を抑えるのにも苦労していると見て取った守護たちは将軍の命令を無視し、京都に税収入(段銭)も届けなくなってしまった。朝廷の窮乏も著しかった。公家たちも多くが諸国に去り、儀式は次々と費用不足で中止され、即位式や葬儀の予算すらなくなる。後柏原天皇が何とか資金を集めて即位式を挙げたのは即位から22年後であり(『二水記』)、その先代の後土御門天皇に至っては死後43日に渡って遺体が放置され、葬儀が行われなかった(『後法興院記』)。かくして旧来の支配体制は力を失い、上下関係も力で覆される「下克上」が日本史において唯一、許される時代の到来となる。各地を治める有力者は「戦国大名」と呼ばれ、領地の統治や他国との興亡を続けた。群雄割拠の中で目指した全国制覇(※五畿七道の全制覇ではなく、畿内五ヶ国の覇者となる事)を「天下統一」と呼び、天下統一を果たした人物は天下人と呼び習わされた。
しかし、下克上とはいっても近代以降のような身分にとらわれない社会になった訳ではなく、それ以前の時代同様、家柄の権威は重んじられていた(織田信長は平資盛からなる平氏を名乗りそれが世間に受け入れられており、徳川家康は清和源氏の新田氏から連なる源氏の傍流を名乗っていた)。庶民が一代で戦国大名になった事例は鎌倉時代、全国各地に武家の実力者を配置した全国の守護や土豪など権力に対して全く後ろ盾がなかった豊臣秀吉・秀長のみで、極めて希有な例である。同時に戦国大名たりうるにはその地域の守護、守護代、国人といった室町期を通じたもしくはそれ以前からの領主としての支配が重要であり、武士の家系ではあったがそのような背景を持たない斎藤道三は成り上がり者として六角承禎に酷く罵られている(池上裕子『戦国の群像』pp.28)。
下剋上の論理が浸透する最中、地域社会の自治進展は著しかった。農村の百姓たちは名主たちに指導されて年貢の未進を繰り返し、困り果てた領主側は幕府に訴えたり自ら農村に居住して年貢を確保すると言った対応に追われた(山田邦明『戦国の活力』pp.50)。村で起きた窃盗などの事件は村で処断するようになり、これを自検断と呼んで死刑の執行権すら村側にあり領主の介入は制限されていた(山田邦明『戦国の活力』pp.64)。なお、このような農村の指導者は必ずしも純粋な農民ではなかった。大きく分けて国衆(または国人、沙汰人)と呼ばれ、村の代表と幕府や有力武家の被官を兼ねた者たちと名主・番頭といった上層の百姓からなるが、名主の中から武力を持つ侍衆と呼ばれる集団が生まれて他の武士の被官として活躍もしている(久留島典子『一揆と戦国大名』pp.83)。このように、当時の農民と武士の違いは流動的であった。
都市も自治が進んでいくが、その様相は農村とかなり異なる。応仁の乱以来の戦乱に悩まされる京都では、町人たちが武装して諸国の守護たちの侵入を撃退したり放火犯を成敗する等の自検断を行った(池上裕子『戦国の群像』pp.233)。しかし地方都市は大名の影響力を無視する事が出来ない。例えば勘合貿易の拠点として栄えた博多や堺は、それぞれ大内氏や細川氏の勢力を背景にして成立していた(池上裕子『戦国の群像』pp.233)。また南蛮貿易で栄えた平戸や長崎は、松浦隆信や大村純忠といった領主の支援で繁栄している(池上裕子『戦国の群像』pp.173)。戦国大名たちは楽市令を発していたが、実はそれは座の特権を排する楽座とは言えなかった。すなわち、戦国大名たちは諸役免除の特権を与えて都市から旧来の領主や座の特権を排したが、それは役銭の徴収を大名が独占するという大名の支配と従属下での楽市であったのである(池上裕子『戦国の群像』pp.244)。
このような戦国時代の合戦の実態とはどのようなものであったか。主に小和田哲男『戦国の合戦』から要約してみよう。まず兵力。戦国初期は一千~二千ぐらいの軍勢の衝突であったが、後期になると一万~二万程度、桶狭間の戦いでの今川義元の軍勢や三方ヶ原の戦いでの武田信玄の軍勢が二万五千とされ、織田信長の最大動員が六万、豊臣秀吉の小田原攻めが二十万以上となっている。その構成は四分の三から九割が農民であったとされ、兵農未分離の戦国初期では半農半士の土豪、地侍が戦力の中心であった。農民たちは小作料免除等を報酬に動員され、実戦部隊だけでなく鉈・鍬・縄などを装備した工兵隊や補給を担当する小荷駄隊としても扱われている。このような農民中心の構成から後に織田信長によって兵農分離が進んでいくことになる。戦いにおける武士の理念は御恩と奉公であり、働きに見合った恩賞がなければ出奔して他の主君に仕えるのが当たり前であり、逆に知行を与えられているのに働きが足りない家臣は追放もありえた。仮に戦死しても、主君にその働きが認められれば子孫が高い恩賞を受け取ることが可能であり、家臣たちは負けと分かった戦いでも勇敢に戦った。戦術としては、それまでの弓矢を主とする戦いから、三間半(約6.3m)にもなる長鑓を装備した足軽が集団で並んで鑓ぶすまを形成し敵の進軍を食い止めるという戦法が一般的になった。後に鉄砲が伝来すると次第に弓矢や鑓に代わって鉄砲が主武装になっていった(小和田哲男『戦国の合戦』)。兵農分離が進んでいない為、農業に差し支える農繁期の出陣は避けられることが多く、敵に攻め込まれても農繁期まで耐えれば一般に遠征軍は引き上げた。このため籠城戦が有効で、各地に無数の山城が築かれた(小和田哲男『戦国の城』)。
ところで日本史上最大級の内乱状態となった戦国時代であるが、この時代は決して常に戦争に明け暮れていた訳ではない。合戦が頻発したのは、中央政権たる室町幕府が力を失って京都周辺に影響力を及ぼすだけの小勢力に転落した為であり、それまで室町幕府の管理下にあった各地の地方勢力が放置され力を増し互いに抗争した結果である。同時に戦国大名が領地経営に意を払った結果、地方の経済水準は向上し人口は右肩上がりになり、人々の生活の質も概ね上がった。京都が廃れ人材が各地に離散し文化が全国へと波及すると、田舎に都の文化が根付く事となった。こうして「戦乱に明け暮れていた悲惨な戦国時代」とはかけ離れた結果を生み出した。
そして実に意外な事に、欧州や中東、中国など全世界的に見てみても、日本の戦国時代というものはまるで春の木漏れ日のようだと例えられる程に戦傷者の少ない時代でもあったのが現実であったりする。しかしその「小競り合い程度」の戦闘を繰り返していた挙げ句、陸軍能力に於いてはほぼ世界最強までのし上がる事になるのも戦国時代の妙である。
こういった理由があってか戦国時代をモチーフにした創作は江戸時代から現代に至るまで数多くなされ、いつの時代も人気がある。
やがて織田信長、次いで豊臣秀吉は将軍に代わる自らの権力正当化手段として皇室の権威を利用した国家作りを進める。楽市楽座による商業の発展、検地と刀狩りによる税収増と兵農分離、こうした成果を背景にした、秀吉の天下統一によって乱世は終わり、再び日本は統一国家としての体を取り戻すことになる。
時代史
室町期
応仁元年(1467年)、室町幕府8代将軍・足利義政の時、足利将軍家の次期将軍争い、畠山家跡継ぎ問題、細川家と山名家、斯波家の軍事衝突などが絡み合い、天下を二分する応仁の乱が勃発し、この争いによって箍が外れ争いの連鎖が全国に広がった。それまでにも戦は多くあったのだが室町幕府は寧ろ跡目争いを主とした内訌を煽り立て、この戦争に介入する事で「みかじめ料」を得て政権を運営、安定化していた為、地元の本拠地、京で戦が起きては商売にならない所かマイナスしか生まない惨状となる。
応仁の乱は長引いた末、京は荒れ幕府の権力は混乱。その中で応仁の乱の主役であった細川勝元の子である細川政元は「半将軍」とまで呼ばれる権威を手にし、明応2年(1494年)に10代将軍である足利義材を追放して幕府内の実権を握るが、足利義澄を11代将軍に擁立して幕府を牛耳っていた細川政元は修験道に傾倒する余り女人を遠ざけ実子がなく、後継に摂関家の九条家から九条澄之を養子に迎え入れるが、後に心変わりし九条澄之を養子に迎えたその翌年、今度は分家の阿波細川家から細川澄元を養子に迎え入れ澄之を廃嫡し、後継と定める。家督相続権を奪われた澄之派と澄元派の対立は激化し、加えて軍事面で信頼を得た澄元補佐役の三好之長(三好長慶の曾祖父)が細川京兆家の実権を握ると、この人事に憤った古参の家臣団が細川澄元、九条澄之、加えて野州細川家から養子に迎えていた細川高国とにそれぞれ荷担し三つ巴となって激しい内乱が勃発し結果、細川政元が暗殺されると細川京兆家は大混乱に陥った(永正の錯乱)。
この間隙を縫って周防の大内義興が永正5年(西暦1508年)、前将軍である足利義材(後の足利義稙)と細川高国を擁して上洛し、第11代将軍である足利義澄と細川澄元を排し幕政を牛耳り戦乱を約十年間、安定化させる。が、大内氏は大内義興の代に周防で尼子氏が台頭してきたのでこれを抑える為に帰国、しかし義興の嫡男・大内義隆の晩年には凋落、第一次月山富田城の戦いで尼子晴久に敗れ、配下の陶隆房によって下克上の憂き目に遭い家を乗っ取られてしまう。その後、大内氏を簒奪した陶晴賢も厳島の戦いで毛利元就に惨敗して自害、元就が大内旧領を平定した。
一方、細川澄元と三好之長の後援を得た足利義澄によって後ろ盾を失った細川高国と足利義稙は阿波に逃れ、足利義稙は其処で薨去した。しかし、細川高国は再上洛を果たし三好之長は自刃、足利義澄も近江に逃れそのまま息を引き取る事になる。そこで細川高国は播磨にいた足利義晴を呼び寄せて12代将軍に着任させるがその六年後、足利義稙の養子になっていた足利義維(堺公方)と細川澄元の子である細川晴元、並びに三好元長(三好長慶の父)らが堺に上陸、将軍である足利義晴と細川高国は近江に逃れ、京には誰も居なくなったのである。
細川高国は摂津で堺公方と戦乱を広げたが戦死し、しかし堺公方も内部分裂し三好元長は敗死。足利義晴は足利義輝に将軍位を譲って足利義輝が13代将軍となり、細川高国の後継者である細川氏綱と組んで細川晴元と対立するが最終的に両者は和解する。
だが、今度は細川晴元とその家臣である三好長慶が対立を起こした。三好長慶は細川氏綱と組んで入京し、足利義晴、足利義輝と細川晴元は近江に逐われ足利義晴は其処で薨去する事になる。一方、足利義輝は三好長慶と和解し京へと復帰、細川晴元は見捨てられて細川氏綱が最後の管領(阿波細川家)となったが間もなく死んだ。
こうして13代将軍・足利義輝の元で三好長慶は安定した政権を生み出すが、しかし嫡男である三好義興が早世し長慶が気力を失うと、晩年に三好長慶の勢力は凋落し、再び畿内は戦乱に呑まれた。永禄5年(1562年)には松永久秀と三好三人衆が第13代将軍・足利義輝を暗殺し次の将軍に堺公方・足利義維の次男・義栄を擁立(永禄の変)、三好長慶の後を継いだ養嗣子・三好義継(長慶の弟・十河一存の子)は凡庸であった為、三好氏の重臣である三好三人衆と松永久秀に実権が移る。が、主観的に「下剋上」を考える松永久秀と「三好家」による政権運営を考える三好三人衆は政権の運営方針で齟齬を来たし久秀は大和に撤退、三好三人衆と争うようになり、久秀軍は東大寺大仏殿に籠もった三人衆の軍勢に攻勢をかけ大仏殿は炎上、久秀は三好家を乗っ取り、将軍を殺し、東大寺大仏殿を焼討ちした大悪人として伝説的な悪名を残すこととなった(但し、大仏殿の延焼は三好陣営による失火が原因とされている)。永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を伴って上洛してくると三好三人衆の軍勢は敗れて四散し、松永久秀は早々に降伏し大和一国を安堵される。三好三人衆に擁立され続けた14代将軍である足利義栄は、同年、一度も京に入る事が出来ず、織田信長に擁立された足利義昭が第15代将軍として入京するのを尻目に病没する。こうして織田信長が上洛を果たすまでは決して安定しているとは言えない政治が行われた。
以上のような幕政の混乱で幕府の求心力は著しく低下し、同時に室町幕府下では国主(守護)は基本的に京都住まいであった為、京は治安も悪く食糧確保も困難であるという事で幕府を見限って早々に国元へと帰国し、地方をまとめあげることに成功した守護大名は力を増し、逆に地元へと帰らぬ守護大名は守護職が留守で地盤を固めやすかった守護代、守護又代、或いは国人衆に国主を取って代わられ、これが戦国大名へと変わっていった(下克上)。さらに一向宗をはじめとする寺、社が扇動する形での一揆も各地で続発し、三河の徳川家康は配下のほとんどが一向一揆側につくほど追いつめられ、加賀においては一向宗徒が守護大名・冨樫氏を滅ぼして同地を支配するに至った。
但し、天下人の要点は「京を含めた畿内を掌握し安定化させること」であるため、少なくとも大内義興、三好長慶は短期的ながらもこの天下人の要素を満たす事になるし、実際に世間もそう受け取っていた(日本全土を完全掌握する必要はなく、地方で戦乱が起きていてもある程度は構わないのである)。将軍を擁しての上洛も織田信長は上記二者に続いて三番目であることは留意したいが、京の人間は「また大内、三好と同じであろう」と冷めた視線で見ていた点も特徴である。
・主立った国同士の戦争。
応仁の乱、享徳の乱、嘉吉の乱、厳島の戦い、上杉禅秀の乱、寧波の乱
・主立った一揆
天分年間(西暦1550年前後)からヨーロッパ人が来訪し、各分国同士とで直接、南蛮貿易が始まり、舶来の文物は政治・生活・戦争に影響と変化を与えた。
東北は陸奥の伊達輝宗・政宗や出羽の最上義光、同じく出羽の小野寺景道、関東は相模の北条早雲・氏綱・氏康、常陸の佐竹義重(佐竹義宣の父)、下野の宇都宮成綱、下総の結城政朝・政勝、駿河の今川義元、三河の徳川家康、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、美濃の斎藤道三、近江の浅井長政、越前の朝倉孝景(特に七代当主、英林孝景)、中国の毛利元就・輝元、四国は土佐の長宗我部元親、九州は豊後の大友宗麟や薩摩の島津貴久・義弘、肥前の龍造寺隆信などの戦国武将が次々出現(この内、守護職から大名へと転身したのは佐竹、宇都宮、武田、朝倉、島津、大友)。
その中で、抜きん出て勢力拡大と天下統一を図ったのが尾張の織田信長である。幸運にも三好長慶の政権が短命で終わりその受け皿が用意されず畿内は再び不安定な政情へと変貌した為、ここに中央政界へと乗り出す契機が生まれることとなる。
・主立った国同士の戦争。
桶狭間の戦い、河越城の戦い(河越夜合戦)、上田原の戦い、川中島の戦い、三増峠の戦い、高林の戦い
織豊期(安土桃山時代)
永禄3年(1550年)に織田信長は尾張へと侵攻してきた義元を桶狭間の戦いで討ち取り、永禄11年(1568年)、渡りに船とばかりに越前から尾張へと下向してきた足利義昭を室町幕府第15代将軍に就任させるべく上洛。中部、近畿を勢力下に置き、全国の武将達に先んじて天下統一に王手をかけた。
自領守備と勢力の周辺拡大に固執して国家統一とその運営に興味を抱かなかった一般的な大名と比べて、日本列島全土の視野での勢力拡大と統一、運営手法などをいち早く確立した高い政治能力が信長を飛躍せしめたと言われる。加えて尾張の織田軍は農家の次男、三男といった人々を軍事専門職として遇するなど他国の軍が農繁期には農業に専念するのに比べ構造が先進的であり、人員や兵站も現地調達という名の略奪に頼ることなく本国から持ち寄り、人買い人売りもせずキチンと人足にも賃金を払い金払いが良かった事から、苛政が行われていた、或いは長く紛争地帯に置かれていた住民には寧ろ進攻を歓迎される方向にあった(この路線は豊臣秀吉にも受け継がれる)。
しかし、次第に足利義昭と織田信長は国家運営の指針から対立し(特に志賀の陣で和睦を要請しておきながら翌年、その比叡山を焼き討ちした織田信長の行為は足利義昭の面目を丸潰れにした)、どうしても国家采配をみずからの手で振るいたがる将軍・義昭は織田信長から離反、各地の武将達に呼びかけて形成した織田家包囲網(第一次織田家包囲網、第二次織田家包囲網)で対抗して一時は信長を窮地に立たせるも失敗し、天正元年(1573年)、逆に追放され室町幕府は京から逐電、備後の鞆に居を構えるが今度の再起はならず、足利将軍家は足利義昭を最後にそのまま終焉を迎える。
志賀の陣で織田軍に敵対的な行動に終始した比叡山延暦寺を焼き討ちし(但し比叡山は既に足利義教の代に一度、細川政元の代に一度、合計二度、跡形も無く焼き払われている)刀根坂の戦いで越前の朝倉義景を征伐、取って返した小谷城の戦いで北近江の浅井長政を滅ぼし、二度の織田家包囲網を長篠の戦いで武田家を倒し潜り抜け甲州征伐で武田家を滅ぼすと、上杉家と毛利家も織田家の前に苦境へと追い込まれる。奥羽の伊達、蘆名、関東の北条、四国の長宗我部、九州の大友といった諸勢力も織田家に恭順の意を示し天下統一に邁進する信長だったが、天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反「本能寺の変」に遭い、志し半ばにして嫡子の織田信忠とともに倒れた。
この折、毛利攻めをしていた織田家家臣、羽柴秀吉は急ぎ戻って光秀を山崎の戦いで倒し信長の仇を取ると、更に織田家の家督相続などで対立した柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで倒して織田家の主導権を握り、小牧・長久手の戦いから続く一連の圧力で家康、信長の次男・織田信雄も屈服させ、第二次紀州征伐、四国征伐、九州征伐、小田原征伐(北条征伐)にて紀伊や九州、四国、関東も平定して、全国に惣無事令を敷く事によって遂に天下統一を完遂した。
同時に豊臣秀吉は「関白」の位に就き、伏見を拠点に全国で検地(太閤検地)や刀狩りを実施し、国内の一元支配を盤石なものとした。
晩年は織田信長が提唱していたとも、与えるべき恩賞がなくなりその不満をそらすためともいわれる唐入り(慶長の役、文禄の役)を実行、明の首都・北京を目指して二度、出兵するが、この出兵には明朝の要請で援軍に加わった騎馬兵などの活躍で、日本、朝鮮、明のいずれもに数十万人の死者を出す凄惨な結果となった。最終的には秀吉の死により、日本史上稀な対外征服の試みは頓挫したが、この北方騎馬民族の援軍謝礼に明朝は満足な報酬を支払うことができず、結果として明朝は豊臣秀吉の出兵によって崩壊することとなる。かくして、終戦は豊臣秀吉自身の薨去で、遇えなくして徳川家康が領土を欲しがる各武将を抑えつつ、第三次朝鮮出兵を臭わせながらのきな臭い最後に終わった(実際に、九州の島津家は武力によって琉球を支配下に置いている)。
秀吉の出生は百姓や足軽と言われ、農民出身者が最高権力者にまで出世を果たしたのは我が国において唯一の例である。
・主立った国同士の戦争。
本國寺の変(六条合戦)、姉川の戦い、比叡山焼き討ち、刀根坂の戦い、小谷城の戦い、三方ヶ原の戦い、石山合戦、志賀の陣、第一次紀州征伐、長篠の戦い、御館の乱、三木合戦(三木の干殺し)、鳥取城の戦い(鳥取の飢え殺し)、備中高松城の戦い(高松城の水攻め)、山崎の戦い、天正壬午の乱、神流川の戦い、第一次上田合戦、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、第二次紀州征伐、甲州征伐(武田崩れ)、四国征伐、九州征伐、小田原征伐、慶長の役、文禄の役
・主立った一揆
江戸期
秀吉死後の慶長5年(1600年)、豊臣秀頼の後見人争いとして徳川家康の東軍と、毛利輝元を担ぎ上げた石田三成の西軍に分かれた、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が起こり、東軍方が勝利。
慶長8年(西暦1603年)、徳川家康は朝廷から「征夷大将軍」に任じられ、江戸を中心とする江戸幕府を開いた。慶長10年(1605年)には家康は駿府に移って大御所となると、早々に徳川秀忠へと将軍職を譲り、徳川家による征夷大将軍職の継承と実権はすでに江戸幕府にあることを天下に知らしめることとなった。
慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)に江戸幕府は大坂の陣(冬の陣、夏の陣)で大坂城に籠もった淀殿・豊臣秀頼母子を自刃に追い込み、豊臣家を滅ぼして中央権力を握った。元和偃武の宣言である。
こうして、大規模な争いの続いた戦国乱世は終結。「天下統一」を目指した時代は江戸幕府による「天下泰平」の時代へ移る。
・主立った国同士の戦争。
・主立った一揆
戦国時代を舞台にした作品
詳しくは→戦国時代作品の一覧