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ウィリアム・ステイントン・モーゼス(William Stainton Moses, 1839年 - 1892年)は、英国教会の牧師。「霊訓」の受信者として有名。


略歴編集

牧師になるまで編集

イギリス・リンカンシア州、ドニントン生まれ。父は学校の校長で、教育に熱心だった。

モーゼスは奨学金を得てオックスフォード大学のエクセターカレッジに入学し、修士号をとって英国教会の牧師の資格を得た。在学中には過労による神経衰弱のため休学し、ギリシアにあるアトス山の修道院で半年ほど過ごした。

1863年、24歳で牧師としてマン島に赴任し、教区の人々から慕われた。天然痘が流行したときは、看護を手伝ったり、ひどい状態で誰も近づかないような遺体を埋葬したという。またこの頃、雑誌への寄稿も始めている。

スピリチュアリズムとの出会い編集

1869年、30歳で重病に罹り、治療を受けたスピーア博士一家と親交を結ぶ。スピーア夫人が熱心なスピリチュアリストだったため、初めてスピリチュアリズムに関心を持つ。いくつかの交霊会(霊媒ヒュームにも会っている)に出席するうちに、死後存続について確信を持つようになった。

その後モーゼス自身が霊能力を発揮するようになり、初期は重い物体が動いたり、その場にない品物が突然現れたり(アポーツ)、芳香が漂ったり、モーゼスが空中に浮遊するなどの物理的な現象が起きたが、後に哲学的なメッセージ主体のものへと移行していった。

1870年、再び牧師として働き始めるが、間もなく病気が再発したため牧師を辞職。この頃からスピーア博士の息子の家庭教師を7年続けた。「心霊主義英国協会 British National Association of Spiritualism, BNAS」にも参加。

1871年、ロンドンにある大学の英語教師になる。

インペレーターからの通信編集

1873年、自らの自動書記で通信を受け取り始める。

1882年、マイヤースと親交を結んでいたが、SPR創設に際しては助言を与えるなど協力し、会員として参加。スピーア博士も共に参加した。

1883年、1871-1882年の間のノート24冊分にのぼる膨大な自動書記から抜粋・編集して、のちに世界三大霊訓の1つと評価されることになる『霊訓』を出版。牧師だったモーゼスと、インペレーターと名乗る霊との、既成宗教に関する真剣な論争の記録である。

1884年、ロンドン心霊協会London Spiritualist Alliance, LSAを設立。

1886年、SPRを脱会。現象ばかりを重視することに不満を持っていたが、SPRがひとりの霊媒をトリックだと発表したのを機に役員を辞めた。

1889年、病気のため大学の教師を辞職。晩年は痛風と神経痛、うつ病、全身疲憊、眼病、腎臓病、さらに数回のインフルエンザと闘い、1892年に53歳で死去した。自動書記のノートはマイヤースに遺託。

その後、霊媒パイパー夫人の交霊会などに現れてメッセージを伝えている。またスピーア夫人が、モーゼスの生前に交霊会で得たメッセージなどを編集して出版している。

モーゼスの著作編集

  • 1879年 Spirit Identity
  • 1882年 Psychography
  • 1880年 The Higher Aspects of Spiritualism

(上記3冊をまとめたものが「インペレーターの霊訓―続 霊訓―」近藤千雄訳、潮文社)

  • 1883年 Spirit Teachings 邦訳:霊訓<完訳>近藤千雄訳/心の道場(上下刊)

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