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国民服は昭和15年(1940年)に勅令によって定められた日本人男子の衣服。

生地の色は茶褐色(カーキ色)で、陸軍の軍服に似た折襟5釦のものが最も有名だが、実際のところ上衣(ジャケット)は背広型を含めた4種類、帽子は戦闘帽型と烏帽子形で庇を付けた様式の2種類が定められていた。

概要

公式には「洋服の機能性と和服の伝統的な様式を併せ持った衣服」と喧伝されていた(らしい)。

味気ない服ではあるが、胸部に紫色の組紐で作られた国民服儀礼章と白手袋を着用することで礼服の代わりとして使用することが認められていた。(〜昭和22年)


当時の紳士服、特に礼服は仕立屋(洋服屋)で誂えるか、或いは普段着であれば家庭で仕立てる事も多かったため『国民服の作り方』なる書籍や婦人雑誌の記事もあった。

故に細かい部分は、個体毎に大きな差がある。


規格

昭和15年の時点では、上衣(ジャケット)の様式は1号〜4号の4種類。

生地は基本的に茶褐色あるものの、軍服ほど厳密な規格化はされておらず、茶褐色であれば任意の生地で良いとされた。

また、極力軍服に似た構造で極力少ない生地で簡単に作れる構造を目指して設計されていた。


規格別に〇号の名がついているものの、被服のサイズを示す号数ではなく、それぞれの規格の名称である。


1号(後の甲号)

襟は立折襟。前の釦は5個で襟元を閉じるか第一釦を開けて開襟で着用することもできる。

胸ポケットは独特のもので、縦型のスリットをボタンで留めるウェルトポケット(切りポケット)。

腰ポケットはオーソドックスはパッチポケット(貼りポケット)。

腰には飾り帯(帯形)が縫い付けられている。


2号

1号の構造を簡単にしたもの。

胸ポケットはすべて雨覆付きパッチポケットで、飾り帯が無い。


3号

海軍の陸戦服や陸軍の防暑服に似た、背広型の服。

釦が4個で開襟、つまり背広と同じく襟元が閉じられないものとする資料もあれば、釦が5個で軍服と同様に閉じることもできるものもある。

とはいえ、民間人が任意で作ったものであるのでそれぞれ創意工夫がされていることは想像に難くないし、或いは現存するものも戦後に実際に背広(風)に改造された可能性もある。

ポケットはすべてパッチポケット。


4号(後の乙号)

陸軍の九八式によく似た服。

立折襟で、1号と同様に襟元まで閉じたり或いは第一釦だけ開けて開襟で着用することもできる。

ポケットは雨蓋のついたウェルトポケットが左右の胸部と腰に付くので合計4箇所。

国民服そのものが、太平洋戦争末期まで「男子の標準服」と言えるほど普及しなかった事や、実際に標準服として普及した頃にはこの4号(乙号)が主力となったため「国民服≒軍服そっくりな服」となった。


戦局が厳しく本土決戦が現実的となった昭和19年には1号を甲号、4号を乙号とした2種類に絞られた。



国民服制定の背景

大量動員による軍服不足を「召集兵(つまり国民)の手持ちの服で補えることができれば理想である」という目論見があったことは事実であろうが、前述のように4種類(軍服とは似ても似つかぬ代物もある)の規格があったこと、推奨こそされたものの必ずしも着用が強要された服では無かったことなどを鑑みると、当初は「贅沢は敵だ」と質素倹約を旨とする論調に合わせた服であったり、或いは英語排斥運動のように国民の意識を戦時下の総力戦へと向ける意図が大きかったことだろう。

とはいえ、戦局が極度に悪化した太平洋戦争末期には、実際に「国民服を軍服の代用としてよい」という特例が下逹された。


また、軍服に極めてよく似た服であったため、沖縄など地上戦が発生した地域では国民服を着た非戦闘員が兵士と誤認されて射殺されることが後を絶たなかったそうである。

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