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別名、大分城、荷揚城、白雉城。


古くは大友氏が大友氏館や防衛用の土塁などを築いていた。

この地を府内と呼んでいた。


1597年に福原氏が荷揚城として築城。


関ヶ原の戦いの後、竹中氏が入城。

その際に大改修が行われ現在の府内城が完成する。


が、竹中氏が密貿易の罪で改易されると日根野氏。

その後大給松平氏が藩主となり明治維新まで存続する。


曲輪ごとに堀がめぐらされ、それぞれを廊下橋でつなぐと言う独特の構造であった。


尚、府内藩は早くから経済的に困窮しており後期には城の維持すら出来ず一部は荒れ果てていたと言われる。


江戸時代半ばに天守が焼失したが、再建されなかった。



築城時の逸話編集

◆石垣の敷設時、急きょ「値上げ交渉」が行われることとなった。が、石を運んできた業者は値段に納得できず激怒し船で運んできた石をそのまま海中に沈めて帰って行ったという。

だが、後日その石をサルベージして再利用し、運搬料無料で石垣の石を手に入れたという


◆石垣が何度も崩れるので「人柱」を建てることとなった。

「人柱となった者の身内は一生の安泰を約束する」としたところ、お宮という娘が人柱に名を上げた。

彼女は弁財天の像を抱いて人柱になったとされる。

それ以来府内城はまたの名を「お宮城」とも呼ばれるようになったという

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