東京帝国大学で中世史を講じ、社会経済史学の手法を取り入れた国史学者。
その一方で、皇国護持史観を説きつづけたことで有名である(ただし様々な色合いのある戦時下の歴史学のなかで、平泉の立場がいかなるものであったかも再検討されている)。
昭和20年の敗戦まで、東京帝国大学文学部国史学科の教授であった。
しかし東亜大戦後、唯物史観が史学界を支配すると、平泉の業績は検討されず、平泉自身に対する人格的な攻撃が主流となった。
平泉は「マッカーサー憲法」(日本国憲法)を「外国の暴力による強制」としてこれを破棄することを唱えた。ただし晩年には、現状で憲法改正をおこなえば現在よりもまずいものになると考えていたようである。
昭和45年11月には『少年日本史』を出版。
80歳を迎えた昭和49年には、東京を引き払って、福井県勝山市平泉寺町平泉寺の生家に隠棲した。
昭和57年9月23日に、60年間連れ添った妻・逸子が他界し、それから一年半後の昭和59年2月18日、生家で家族に見守られつつ、世を去った。
平泉門下の高弟に田中卓がいる。