概要
心から発せられた感情を見ても意味がわからないなら、呉岳が章北海を理解できる見込みはない。共同任務に成功したからといって、相手の理解に成功したことにはならない。その一方、章北海の目は、水兵から艦長に至るまで、あらゆる相手の心の奥をたやすく見透せるかのようだ。当然、呉岳自身の心も、章北海の目にはガラスのように透きとおっていることだろう。
章北海(しょう・ほっかい/ジャン・ベイハイ/Zhang Beihai)は、SF小説「三体」シリーズ第2部「黒暗森林」(作者:劉慈欣)の登場人物。「黒暗森林」の主人公である羅輯とは、ほぼ直接的な接点が無いにもかかわらず、「黒暗森林」中では、彼の動向が極めて詳細に記述されている。
元々は21世紀の時代の中国海軍の政治将校で、地球侵略を狙う異星人「三体人」の存在が明らかになり、西暦に代って「危機紀元」が使われるようになった頃には、三体人に対抗する為に作られた中国宇宙軍に移り、そこで「敗北主義者(彼我の科学技術の大差と、三体人が行なったある事により地球では基礎科学の発展が望めなくなった事から、三体人への勝利を諦めてしまった者達)」「逃亡主義者(地球人が三体人に勝てる訳は無いので、太陽系外の新天地で人類を存続させようとする者達)」を徹底的に排除し続ける。
その後、三体人との最終決戦に備えて、人工冬眠による長い眠りにつくが……。
極めて強固な「勝利主義」の信念と、「勝てる戦いしか戦わないのは軍や軍人の本分に外れる。負けると判っている戦いであっても、結果に関係なく、軍や軍人は、国や人民・人類への責任を果たさねばならない」と云う信条の持ち主。
だが、同じく軍人だった父親から「他人に心を読まれるな」「深く複雑な思考が出来る人間になれ」と云う教育を受けていたせいもあってか、その「必勝」の信念の根拠は、上官や同僚・親友にも全く謎だった。
一見、模範的な軍人でありながら、自分の信念と人類の存続の為には、軍人の本分に外れた犯罪行為を自分で行なう事も厭わぬ危険な一面も持つ。
「狂信的な信念を極めて理性的・合理的な方法で実現させていく」と云うサイコパスめいた人物であるかのようにも見えるが……。
21世紀(危機紀元初期)における行動
章北海、きみに信念があることはわかっている。あの父の息子なのだから、信念がないはずがない。しかし、ことはきみが言うほど単純ではない。わたしにはきみの信念がどうやって打ち立てられたのかわからないし、その信念にどんな中身があるのかもわからない。まさしく、きみの父親と同じだ。わたしは彼を尊敬していたが、最後まで彼の心を見抜けなかったと認めざるを得ない。
中国海軍の政治将校だった章北海は、海軍で共同任務に就いていた呉岳と共に、新に設立された中国宇宙軍に所属を変更される事になった。しかし、彼が中国宇宙軍で最初にやった事は……親友でもある呉岳を「敗北主義者」として告発し、宇宙軍から追放する事だった。(事実、艦艇の指揮官を長くやってきていた呉岳は、技術的な理由から三体人に勝利する見込みは、ほとんどない、と考えるに至っていた)
その後も、宇宙軍内で政治思想工作を行なう傍ら「最大速度が光速の5%で閉鎖生態系と初歩的な恒星間航行能力を持つ宇宙戦艦を建造する為の基礎技術の確立」と「敗北主義が蔓延しているであろう未来に対する『増援』」を提案する。
しかし、彼が三体人との戦争と、その後の人類の存続に必要と考える戦闘艦に搭載する核融合エンジンの開発では、「化学型のロケットのように核融合により推進剤を噴射する方式」を推す派閥と「核融合の特性に合わせた新しい推進方式」を推す派閥との間で対立が生じていたが、両方を開発するリソースは中国には無かった。
その事を知った章北海は、見込みが無いと考えた前者の派閥の重鎮達を、衛星軌道上の宇宙施設「黄河ステーション」で流星雨による事故に見せ掛け殺害する。
実は、この行為は、三体人が地球に送った素粒子サイズのスーパーコンピュータ「智子(ソフォン)」により、三体人と、三体人による地球侵略を願う人間達の組織「地球三体協会(ETO)」の知る所となっていた。
しかし、三体人の真の懸念は「科学技術では劣るが、謀略に関するノウハウでは勝る地球人が、自分達の目の届かぬ所で生き残る」事であり、真に恐れている地球上の勢力は「逃亡主義者」に他ならず、章北海のような「『逃亡主義者』を排除し続ける『勝利主義者』」こそが「地球人を自滅に導いてくれる者達」に過ぎなかった。
その為、地球三体協会は、章北海の犯罪行為を公表せず、章北海を「泳がせ」続ける事にした。
そして、章北海自身も、自分が提案した「未来への増援」の1人として、400年後の三体人との最終決戦に備えて、人工冬眠による長い眠りにつく事になった。
危機紀元200年代(西暦で云う23世紀)における行動
章北海が人工冬眠から目覚めたのは、三体人の艦隊が、まだ道半ばに有る約200年後だった。
「大峡谷」と呼ばれる敗北主義の蔓延による絶望の時代を乗り越え、人類社会は、基礎科学の革命的な発展こそ無かったものの、応用科学技術においては著しく発展し、ある意味で黄金時代を迎えていた。
光速の15%に達する速度を出す事が可能な宇宙戦艦を多数保有する超国家的な三大宇宙艦隊(アジア艦隊、ヨーロッパ艦隊、北米艦隊)が21世紀における「超大国」「覇権国家」の役割を果たすようになっており、相対的に地上の「国家」の発言力・影響力は低下していた。
人々は、三体人との戦争での勝利を確信しており、まさしく、章北海が21世紀に望んでいた時代が訪れた……かに見えた。
しかし、実は、ある理由で人工的に「敗北主義」の信念を植え付けられた「刻印族」と呼ばれる者達が宇宙艦隊内部に入り込んでいる可能性が有り、いざと云う場合に備えて、絶対に「刻印族」では有り得ない者達……つまり「刻印族」が最初に生まれる以前に人工冬眠に入った「忠誠心と必勝の信念を規準に選ばれた軍人」に宇宙戦艦の戦闘指揮システムを任せる必要が出てきたのだ。
そして、章北海は「アジア艦隊」の戦艦「自然選択(ナチュラル・セレクション)」に配属され、いざと云う場合には艦長に代って船の全操作権限を握る事が出来る艦長代行に任命される事になり……。
真実
だが、「自然選択(ナチュラル・セレクション)」の制御システムに艦長代行として登録された、その時、章北海は意外な行動に出る。
太陽系外への逃亡である。
実は、章北海は21世紀の時点で「地球人が三体人に勝つのは不可能」と云う結論に至っていた。だが、それが「負けると判っている戦いであっても、軍や軍人は、国や人民・人類への責任を果たさねばならない」と云う彼のもう1つの信念と結び付いた時、導き出された結論は……「人類の一部を太陽系外へ逃がして人類を存続させる」だった。
実は、彼が、これまでに行なってきた全ての事は「自分の信念とは逆の狂信者を演じつつ、人類の一部を太陽系外に逃がす準備を進める」が目的だったのだ。「筋金入りの狂信的な勝利主義者にもかかわらず、何故、必勝の信念を抱いているか親しい人間にも判らない」のも当然で、「筋金入りの狂信的な勝利主義者」は、真の目的を果たす為に被っていた仮面に過ぎなかったのだ。
しかも、彼が目覚めた200年後の世界は……21世紀において意見を求めた学者・政治家達の予想通りの歴史を辿っていた為、彼の「逃亡主義」の信念は更に強まる事になってしまった。
太陽系外に逃亡する「自然選択(ナチュラル・セレクション)」は4隻の宇宙戦艦により追われる事になったが……。その頃、三大宇宙艦隊の約2000隻の宇宙戦艦は、三体人が送り込んできた、「探査機」と思われていた、たった1つの10トン以下の物体「水滴」によって壊滅していた。「自然選択(ナチュラル・セレクション)」と、それを追撃する4隻の宇宙戦艦とは別方向に逃れた2隻を除いて。その2隻も太陽系からの脱出を選択した。
章北海の最期と新文明の誕生
「東方、考えてみたまえ。以前のわれわれに、こんな選択ができたと思うかね? 絶対に不可能だ。しかし、宇宙が我々を新人類に変えた」
「新たな文明の誕生は、新たな倫理の形成を意味する。未来からふりかえれば、われわれのしたことすべてはまったく正常に見えるかもしれない。だから、子どもたちよ、われわれが地獄に落ちることはないだろう」
「自然選択(ナチュラル・セレクション)」とそれを追撃していた4隻の宇宙戦艦のおよそ5500人の乗員は、新なる社会「星艦地球(スターシップ・アース)」を組織し、新天地を目指す事になった。
しかし、すぐに問題が発生した。燃料・補修部品・食料その他のリソースが圧倒的に不足していたのだ。
5隻の戦艦は、ほぼ、同時に同じ結論に達した。他の戦艦の乗組員を殺して、そのリソースを奪うしか無い。好都合な事に5隻の戦艦全てには、他の船の設備・資源をほぼ無傷なまま、乗組員のみを殺傷する事が出来る兵器「超低周波水爆」が積まれていた。
そして、章北海は超低周波水爆を搭載した誘導ミサイルの発射操作を自分の手で行なったが……しかし、彼の魂の奥底に有った彼自身も気付いていなかった「何か」が、発射タイミングをわずかに遅らせてしまった。
「自然選択(ナチュラル・セレクション)」を含めた4隻の宇宙戦艦の全乗員は死亡し、1隻のみが生き残り、他の4隻から奪ったリソースを利用して新天地への旅を続けていった。
それは、人類より派生しながら、「ヒューマニズム」を捨て去った、人類社会とは絶対に相容れない新文明が誕生した瞬間だった。しかし、その新文明の生みの親である章北海は……新文明の一員となる事は出来なかった。自分でも気付いていなかった、わずかな人間性の残滓の為に。
その頃、「星艦地球(スターシップ・アース)」とは、ほぼ逆方向に逃亡した2隻の宇宙戦艦でも同じ事が起き、生き残った1隻が旅を続ける事となった。
関連イラスト
関連項目
三体:登場作品