筒井順慶とは、室町~安土桃山時代に登場した戦国大名の一人である。
解説
生没 | 1549年(天文18年)~1584年(天正12年) |
---|---|
出身 | 大和国 |
領国 | (同上) |
松永久秀との因縁
戦国時代を生きた大和国の大名。
生まれてすぐに父・順昭が病没したことで、女兄弟しかいなかったこともあってわずか2歳で家督を相続することとなった。叔父の順政が後見人となるも、当時破竹の勢いを誇った松永久秀が大和に進攻し、脅威に晒されることとなった。さらに順政の急な病死により、状況は悪化。1565年には久秀からの急襲を受け、ついに居城・筒井城を奪取されてしまう。
その後しばらくは、布施氏の下で雌伏の時を過ごすこととなった。
筒井城争奪戦
翌年、久秀から離反した三好三人衆と結託して筒井城奪還を敢行。堺で三好義継が久秀を抑え込んでいる隙を突いて筒井城の奪還に成功した。
その後、春日大社に参詣した際に宗慶大僧都と出会い、彼を戒師として藤政から陽舜房順慶(ようしゅんぼうじゅんけい)と改名。久秀の勢いを削ぐべく再び刃を交えるも、この頃に室町幕府15代将軍・足利義昭の威光を受けて禁忌に勢力を拡大してきた織田信長に久秀がいち早く誼を交わし、信長という強力な後ろ盾を得た久秀にまたしても居城を奪取されてしまう。
福住城(現在の天理市)に潜伏して反撃の機会を待った順慶は、敵方の内情の混乱の隙を突いて着々と反撃のための力を蓄積していき、1571年に辰市城を築城して最前線基地とし、地元の民衆の協力を得て大規模な合戦を展開。二度目の筒井城を奪還に成功し、さらに久秀の重要拠点である多聞城と信貴山城の導線を寸断することに成功する。
なお、この頃に島清興を重臣に置いたとされる。
信長への従臣
『信長包囲網』が展開される中で久秀と和議を結び、しばらくは良好な関係が続くも翌年には瓦解。再び対立関係に戻り、小競り合いを繰り返すようになる。
従臣後の順慶は、雑賀一揆(紀州征伐)や北陸の一向一揆の鎮圧に参加し、長篠の戦いにも鉄砲隊50人を供出している。そうした努力が実を結び、1576年には信長から大和守護に任ぜられ、ようやく順慶は大和国の領主として返り咲くことに成功した。
そして1577年の『信貴山城の戦い』にて、久秀との長きにわたる因縁に決着を付け、その遺体を順慶軍が回収して達磨寺に葬った。
その後、筒井城をはじめとした大和国各所にある城を信長の命によって破棄し、新たに大和郡山城を築城。
信長に従事し力を振るう、忙しくも平穏な日々が続いた。
再びの波乱
しかし、この平穏も長くは続かなかった。
1582年に「本能寺の変」が起き、光秀が信長に謀反を起こしてこれを討伐。
文化人・知識人として光秀に頼られていた順慶には、当然ながら光秀からの誘いが来ていた。
これに対し、順慶は家臣たちと度重なる評定をおこない、最終的に羽柴秀吉への恭順を決定。しかし籠城の準備をするにとどまり、「山崎の戦い」でも洞ヶ峠(大阪と京都の境界)に布陣しながら静観を決め込むこととなった。これにより、順慶には“日和見者”という風評被害が付きまとうようになる。
戦後、秀吉に拝謁した際にその参陣の遅さを叱責されるも、引き続き大和一国を安堵される。
だがこの頃から順慶の胃は病に侵され始め、「小牧・長久手の戦い」では胃の不調を押して参戦。そして故郷に帰って間もなく、36歳の波乱の障害に幕を引いた。
人物
仏教を厚く信望し、能や茶道、和歌を愛する文化人としての気質が高い。
その一方、幾度とない松永久秀の猛襲に耐え忍び、家臣たちに見限られようとも大和国と筒井家の安寧のために奮起し続けた忍耐力、主君に忠義を尽くす忠誠心、反撃の期を見逃さず攻め手に転じられる気概の強さ、失敗してもただでは起きないしぶとさなど、戦国を生き抜くには十二分な度量があったとみていいだろう。
残念ながら、徳川幕府になって筒井家は改易の憂き目に遭って断絶してしまい、順慶の詳しい人物像を知る手掛かりは失われてしまっている。
文化を愛し、晩年に胃を患うなど、戦国武将には似つかわしくない繊細な部分が、最終的に彼の寿命を縮める結果となった。だが島清興が、石田三成と出会うまで一切の従臣を断り続けた背景には、少なからず順慶個人への強い忠義心があったからこそであり、のちに「関ヶ原の鬼」としてしられる清興にその大器を授けるきっかけを生んだのもまた、順慶であったことには違いないのだ。
むしろ、あの「戦国の梟雄」と生まれながらに戦い続ける運命を背負わされ、それに勝った順慶の精神力は並のものではなかったはずである。
後世の小説などでは、世捨て人のような超然とした精神の持ち主として描かれることが多い模様。