生涯
1533年石川康正の子として三河国で生誕。歳が近いこともあり徳川家康の側近として仕え、
家康の人質時代も同行したと伝わっている。徳川家康が今川義元の人質であった頃から
家康や義元と対立していた織田信長との紛争にも従事していた。
やがて今川義元が桶狭間の戦いで戦死すると、徳川家康は織田信長との同盟、
今川氏からの独立を志すようになり、この際今川家に人質とされていた松平信康や
築山御前を今川家臣であった鵜殿氏を使って人質交換をすることで救助したと言われている。
しかし1563年、西三河を中心に三河一向一揆が発生し、一向宗を支持している徳川家臣の中には、
家族が敵味方に分かれて戦う連中も多かった。石川家も例外ではなく、父親の石川康正が
一向一揆方につき、叔父の石川家成と数正は徳川方についた。
渡辺守綱や本多正信といった多くの徳川家臣が味方した三河一向一揆衆であったが、
やがて家康ら徳川方の奮戦や家康の機転もあり沈静化。この頃から酒井忠次とともに
三河衆の双璧として石川氏は重用されるようになり、叔父の石川家成の後任として
西三河衆を率先したと伝わっている。家康の嫡男である松平信康が元服すると、
その後見人を任されたと言われている。
その後は織田信長の同盟者として戦う徳川家康に従事する一方、徳川家の後方担当として
内政や検地などに功績を見せ、遠江方面で戦う徳川家康らを支援することが多くなった。
三方ヶ原の戦いや長篠の戦いなど、徳川家にとって重要な戦争にも参加している。
羽柴秀吉との交渉を任されるようになり、徳川家康や本多忠勝が関東の
徳川外交の屋台骨をほぼ担っていた。その後羽柴秀吉と対立した織田信雄と、
秀吉の関東に対する影響力の高さを危惧した徳川家康が組んだ小牧・長久手の戦いでは
小牧城の守備を中心に担い、羽柴秀吉に一矢報いることに貢献している。
しかし、1585年、小笠原秀政らとともに突如徳川家を出奔。この原因については諸説ある。
その後豊臣秀吉の家臣として仕え、最終的に信濃松本8万石を領有した。
1593年に数え年61歳で死去。死後子孫はそれぞれ徳川豊臣に分かれて与したが、いずれも衰退した。