第四艦隊事件
だいよんかんたいじけん
概要
1935年(昭和10年)9月26日、海軍演習のため臨時に編成された第四艦隊は、岩手県東沖合い250海里での演習に向かうため9月24日から9月25日にかけ、補給部隊・水雷戦隊・主力部隊・潜水戦隊が函館港を出港した。
すでに台風の接近は報じられていたが、9月26日朝の気象情報により、午後には艦隊と台風が遭遇することが明らかになった。
そのため反転して回避する案も出されたが、上層部は「台風の克服も訓練上有意義である」と判断し、予定通りに航行を続けたのである。
その結果、参加艦艇41隻のうち19隻が何らかの損傷を受けている。
転覆・沈没が無かったのが不幸中の幸いであったと言えよう。
損害
吹雪型駆逐艦:[[初雪>初雪(艦隊これくしょん)]、夕霧・・・艦橋付近で艦体が切断
神風型駆逐艦:朝風・・・艦橋大破
最上型軽巡洋艦(当時):最上・・・艦首部外板にシワ、亀裂が発生
潜水母艦:大鯨(後の龍鳳)・・・船体中央水線部及び艦橋前方上方外板に大型のシワが発生(大鯨は艦体製造に電気溶接を全面的に取り入れた最初の艦)
その他駆逐艦多数に損傷
初雪の切断された艦首等にて殉難者54名
原因について
当初は特型駆逐艦や最上型といった新鋭艦の損傷が大きいため、それらに大規模に使用された溶接部の強度不足が主たる原因とされていたが、実際はワシントン海軍軍縮条約及びロンドン海軍軍縮条約の煽りを受けて重量軽減を徹底したことによる船体強度に構造力学的問題があったためであり、溶接自体が原因ではなかったとされている(当時は溶接技術にも不備があったのだが)。
第四艦隊事件の教訓
先に発生した友鶴事件と合わせて、軍縮条約下で建造された全艦艇のチェックが行われほぼ全艦が対策を施されることになった。
主な対策は、船体強度確保のための補強工事、及び軽量化のための武装の一部撤去(復元性への改良は友鶴事件の影響が大きい)となった(例を挙げれば睦月型は艦橋の全金属化、暁型は艦橋の小型化、初春型は殆ど別物と言ってもいいくらいの大改修が施された)。
また最上型の建造中だった鈴谷・熊野は船体構造が見直され、最上及び三隈とは断面形状が異なっている。
しかし、実際にこの問題の解決には船体強度の向上が必要であり、具体的には船体構造・鋼材の開発・各周波数への振動や温度変化による船体各部の疲労・船体の調査方法(超音波による非破壊検査)までの研究が必要であったが(これらの研究は戦後現在にいたるまで完成されているものではない)、当時はそこまでの調査研究はなされなかった。
最終的に船体強度を増すことが解決策とされ、これ以降の艦艇には、軽量化というメリットはあるが技術的には大きな不安のある溶接を後退させ、リベットによる建造に戻ることになった。
これらの対策の結果。日本海軍の艦艇は荒天時にも十分な艦体強度を有して、第二次世界大戦での活躍につながった。
ただし溶接技術の研究は継続され、強度の不要な部分から始めて、やがて建造期間の短縮の必要から戦時標準船や松型・橘型駆逐艦、海防艦の建造にブロック工法とともに電気溶接が全面的に採用されることになった。
この技術は実際に建造期間の短縮に寄与し、戦後溶接工法の全面的な採用による造船王国への下地を作った。
日本軍の兵器というと、零戦や一式陸攻、九七式中戦車のような防御力を軽視した兵器ばかりだと思われがちであるが、艦艇に限って言えば米英よりもはるかに安全性に優れた物を建造していたのである。
実はアメリカ海軍の艦艇なのだが、日本と違い友鶴事件や第四艦隊事件のような大事故を経験しなかったせいか、日本以上に性能重視で安定性の悪い艦艇を作り続けてしまったのである。
例を挙げると、ペンサコラ級重巡はあまりに重心が高すぎて艦隊側に「外洋航海に向かない」と酷評され、さらにはあのフレッチャー級駆逐艦でさえもカタログスペックこそ高いもののトップヘビーで復元性が悪かったのである。
実際、レイテ沖海戦で大勝したハルゼー艦隊が、フィリピン沖で立て続けに2つの台風に遭遇、フレッチャー級1隻を含む駆逐艦数隻が転覆沈没、エセックス級空母も波浪で飛行甲板が圧壊、100機以上の艦載機を失うという大損害を受けている。
ハルゼーは戦時中ということで隊員の士気が落ちるのを避けるために責任は不問とされたのだが、平時だったらすぐ予備役送りという大失態であった。