重巡洋艦
じゅうじゅんようかん
解説
巡洋艦の中で比較的大型のものをさすが、厳密にはロンドン海軍軍縮条約において「口径6.1インチより大きく8インチ以下(15.5センチ超20.3センチ以下、砲門数の制限はなし)の艦砲を搭載し、基準排水量10,000t以下」と定義された、「カテゴリーA」に属する巡洋艦。
同条約において、軽巡洋艦は「5インチより大きく6.1インチ以下(12.7センチ超15.5センチ以下)の艦砲を搭載し、基準排水量10,000t以下」の「カテゴリーB」に定義された。
(下限排水量は共に1,850t以上。これ以下は駆逐艦になる)
しかし、8インチの艦砲を運用出来る設計であっても搭載している艦砲が6.1インチ以下であれば、同条約の規定上重巡洋艦としては扱われず、実際に排水量で重巡洋艦と軽巡洋艦が逆転している事例もあった。そこに目をつけた旧日本海軍は、「制限未満の艦砲を搭載して軽巡洋艦として登録しておき、条約失効後に艦砲を換装する」という手法を取り、保有制限数を超えた数の重巡洋艦の建造を行っていた。
日本海軍における重巡の命名法について
命名は原則として山の名前が付けられている。
これは、明治38年8月1日に制定された「帝国海軍艦艇の命名基準」による。その中で一等巡洋艦(重巡)は山岳名、二等巡洋艦(軽巡)は河川名となっている。その当時、一等巡洋艦は装甲巡洋艦・二等巡洋艦は防護巡洋艦であった。その後、装甲巡洋艦は巡洋戦艦に発達したため、金剛型や空母赤城(元巡洋戦艦)は山の名がつけられた。一方防護巡洋艦は軽巡洋艦に発達したが、命名には同様に川の名がつけられていた。
しかし、軽巡洋艦より発展しながらも、かつての装甲巡洋艦同様20センチ砲を備えた古鷹型以降の重巡洋艦は一等巡洋艦に類別され、当然艦名も山岳名が採用された。
例外となるのは、計画時は二等巡洋艦の川内型4番艦だった加古、二等巡洋艦として竣工し、条約失効後に主砲を20.3センチ砲に換装した最上型、当初は二等巡洋艦として計画されたが条約失効を見越し再設計され、20.3センチ砲を搭載して竣工した利根型である。
尚、命名基準が明確化される以前に就役・命名された艦にはこの基準は当てはまらない(例えば、日露戦争で活躍した戦艦「三笠」は、奈良県にある三笠山からとられている)。
日本海軍の性癖の象徴
重巡洋艦という艦種を確定させたのは実は日本海軍の古鷹型である。重巡洋艦の役割は主力艦(戦艦)の周りに相手の駆逐艦や水雷艇がウロつかないように、軽巡洋艦を砲火力で圧倒し敵水雷戦隊を撃滅するのも目的であった。
条約の制約下では火力、速力、防御力など全てにおいて満足のいく巡洋艦を設計するのは難しく、兵装や装甲のうちどれかを削減せざるを得なかった。その中には重量物であり危険物でもある雷装をやめる選択もあった。1930年代に入ると、アメリカ海軍などでは軽巡洋艦からすら雷装はなくなっていった(最上型に対抗して建造されたブルックリン級にはすでにない)。
重巡の走りになった日本海軍自身は雷撃にこだわり重巡洋艦にも比較的多くの雷装を搭載した。伝統というよりもはや完全に性癖、フェチ、病気の範疇である(雷装のない巡洋艦の設計に不満を持ち、設計変更に応じない平賀譲を海外視察に送り出してその留守中に藤本喜久雄に雷装を搭載するよう設計変更させたのは最も顕著な例)。
第二次世界大戦での重巡洋艦
先述したとおり、軽巡洋艦と重巡洋艦の違いは主砲の口径のみであり、巡洋艦の特色である汎用性を生かし、水上戦闘部隊旗艦、空母機動部隊の護衛、船団護衛、哨戒、対地艦砲射撃など軽巡洋艦と同様に第一線で活躍した。
アメリカ海軍においては、大戦中にもボルティモア級重巡洋艦、デモイン級重巡洋艦など、20cm砲に耐え得るだけの十分な装甲を施し、なおかつ航空機を搭載し、対空兵装も充実させるという贅沢な仕様の重巡洋艦が建造された。(この頃になると軍縮条約の制限撤廃により、排水量1万トンを大きく超過した重巡洋艦が造れるようになっていた。)
さらには、重巡洋艦と戦艦の中間的な大型巡洋艦(巡洋戦艦と呼ばれる事も)アラスカ級も建造されたが、これは防御力や砲撃性能では戦艦に劣り、コストや汎用性では重巡洋艦に劣る中途半端な存在になってしまった。