加賀(空母)
かが
開戦前からの空母としては最大の排水量・搭載機数を誇り(赤城より全長は短いが幅が広い)、安定性に優れていたが鈍足であった。
建造の経緯
八八艦隊計画の3番艦にして、長門型戦艦の大改良型である加賀型戦艦の1番艦として起工された。
だが、工事中にワシントン海軍軍縮条約が締結された事で、1921年2月5日に建造中止の通達があり、やがて廃棄処分の決定がなされた。
しかし、同時期に工事されていた天城型巡洋戦艦「天城」と「赤城」は、条約の例外で、空母として生き延びる事が許されていた。
ところが1923年9月に発生した関東大震災によって、横須賀海軍工廠で改装中だった「天城」は竜骨損傷という致命傷を受けて破棄されるに及び、代艦として本艦が改造される事となった。
改装
当時の日本海軍には空母の建造経験は小型空母の「鳳翔」しかなく、戦艦からの改装も日本海軍初という手探り状態であった。
この結果、三段飛行甲板や対水上艦用の20cm砲など、その後の空母から見ると奇妙なスタイルが採られた。
中でも、煙突の配置が問題となり、当時保有していた唯一の空母「鳳翔」により、舷側に煙突を立てたままだと航空機の着艦操作に大きな影響を与える事は実証されている。
そこで霞ヶ浦の技術研究所が参考としたのが煙路を両舷に沿って艦尾まで導き排煙するという方式をとっていた英空母「アーガス」である。
「赤城」の、煙突を舷側に斜め下向きに取り付ける方式と比較する為に、「加賀」にはこの艦尾煙突が採用された。
この為、ボイラーからの排煙を、航空機の邪魔にならないようにと煙路を艦尾まで導いて排出する事になったが、長大な煙路の重量、艦内容積の減少に加えて、煙路に隣接する区画の室内温度は40℃にも達したといい、高温により居住に耐えられないという大きな問題を引き起こした。
また、艦尾から排出される煤煙が気流を乱して航空機の着艦を阻害することにもなった為に搭乗員は蒸し焼き、航空機は燻り焼きとなり、付いたあだ名が「海鷲の焼き鳥製造機」というものだった。
もともと高速で長い艦体を持つ巡洋戦艦ベースだった赤城と違い、加賀は速力と全長が足りない戦艦を無理やり改造した為色々と問題だらけだったが、1928年3月31日に「加賀」は空母として改めて竣工した。
とはいえこのままでは流石にまずいと感じた海軍により、日本海軍史上一~二を争うほどの大改修が行われ、誘導煙突を赤城同様の湾曲煙突に変え、三段飛行甲板も一段の長いものとし、高角砲をより強力なものに換装。
特に格納庫の広さはその後の日本空母含め最大だった。艦橋も新調され、右側に立てたので赤城や飛龍より良好と言われる。
全長が足りないので8m延長したが、それでも短く、開戦時の6空母で船体より長い飛行甲板を持っていたのは加賀のみ。
当初は26ノットという鈍足も機関を取り換えた事でそれなりに向上したが、それでも28ノットが精一杯だった。
加賀と赤城の改装には莫大な費用がかかった為、海軍の予算を圧迫する形となったが、その甲斐もあって開戦時には速度を除けば日本空母でトップクラスの性能を有する空母として生まれ変わった。
しかし、20センチ砲は移設しながらも10門を維持、この状態で大戦を迎えた。
第二次世界大戦
第二次世界大戦では、南雲機動部隊の主力空母として、ハワイ海戦に参加。
1942年2月19日パラオ港にて座礁、座礁による修繕の為セイロン沖海戦には参加していない。
同年6月5日ミッドウェー海戦にて沈没。
岡田次作艦長を始めとした多くの乗組員が戦死し、生き残ったのは僅か40名前後程だった。
それから50年以上の月日が流れた1999年5月にアメリカの深海調査会社ノーティコスが同海域を調査した結果、深度5000m付近の海底で加賀の着陸指示灯や右舷後部の銃座の残骸を発見している。
余談
上記の改装による居住性の悪化、改装を繰り返した事で艦内が迷路のようになっていた事もあってか、加賀は日本海軍の中でも特に風紀の乱れた艦であった。
加賀の甲板士官だった板倉光馬によれば、「陰湿な気風」と評されている。
将校が芸者を(勝手に)呼んで宴会を開いたり、乗組員が食料品を窃盗する「銀蝿」が大規模かつ公然と行われるなど、事実上の学級崩壊状態だったという。
海軍名物のリンチや私的制裁も酷く、逃亡者や自殺者が出る事もたびたびだった。
日本海軍の軍艦では大型艦ほど風通しが悪く、体罰や乗組員の問題行動が横行する傾向にあったが、加賀のそれが特に酷かったのは、飛行機乗りの荒くれ者が大勢乗り込んでいた事に加え、当時最大の艦であったた事もその一因だろうか。