足利義満
あしかがよしみつ
史実
第2代将軍足利義詮の嫡男。父の没後、10歳で将軍宣下を受ける。
有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させた。さらに、1392年には南北朝合一を果たす。
1394年に太政大臣に任ぜられる。同年に出家し将軍職は嫡男の足利義持に譲ったが、政治上の実権はなお握っていた。公武の最高位を極め、さらに出家により寺社勢力をも圧倒するに至る。
日明貿易(勘合貿易)を推進し大明皇帝より『日本国王』号を受ける。
現在の鹿苑寺(金閣寺)は義満が別荘として造営し没後に寺に改められたものである。
簒奪計画?「日本国王」?
公武寺社の全権を極めた義満晩年の行動について、息子足利義嗣の天皇即位を狙っていたという説(今谷明『室町の王権』)がある。しかし、義持を廃して愛息子の義嗣を将軍にするための行動に過ぎなかったという懐疑論もある(桜井英治『室町人の精神』)。
また明帝より得た「日本国王」称号であるが、実はこの称号については両説とも一般に簒奪計画の根拠とはしていない。何故か。義満に先立って、九州を掌握していた南朝の皇子・懐良親王が洪武帝から「日本国王良懐」の称号を得ているのは知られている。明との貿易で巨利を得て、北朝と戦う軍資金にしていたわけだ。しかし、実はこの良懐という名は大宰府が陥落して懐良親王が没落し、さらには死去した後も独り歩きしている。明との貿易を望む諸勢力がこぞって「日本国王良懐」の使者を自称し、その中には北朝の後円融天皇の使者すら含まれていた(村井章介『分裂する王権と社会』)。またずっと後に足利義教が日明貿易を行った際に、政治顧問であった醍醐寺の僧三宝院満済はこのように述べたという。「天皇が日本国王として明の国書を受け取るのは神慮に反し良くないが、大臣が受け取るのは古くから行われており問題ない。明側が将軍を日本国王だと思い込んでいるにすぎないのだ(桜井英治、同書)。」幕府は「義満様が日本国王を称して明を謀って国交を開始したのであるから、これを取り下げるのは義満様の虚偽を外国に示すことになり良くない」と結論して明との貿易を再開している(桜井英治、同書)。少なくとも当時の人々は、南北朝の朝廷も幕府も「日本国王」の称号を実利の為にむしろ積極的に偽称として使っていたようだ。当初はバカ正直に「征夷将軍源義満」と称して外交交渉をし、洪武帝に「幼君が位にあるからといって臣下が外交の国権を奪うとは許せぬ、礼節に従って大政奉還しなさい」との返書を喰らった義満には、むしろ祖父足利尊氏に通じるお人よs・・・いや誠実さがあったと考えるべきかもしれない。
創作作品における足利義満
だいたいこの御方のこと。