概要
生没年 元徳2年(1330年)~貞治6年/正平22年(1367年)
幼年期
元徳2年(1330年)、鎌倉幕府に仕える河内源氏の名門・足利高氏の三男(直冬は父・尊氏に認知されなかったため次男とする歴史書もある)として生まれた。母・赤橋登子は名門赤橋流・北条氏の当主にして執権たる赤橋守時の妹であり、高氏の正室であったため嫡男とされた。幼名は千寿王。兄弟として、高氏の側室が生んだ竹若、後に叔父・足利直義の養子となり南朝方の武将となる異母兄・直冬、初代鎌倉公方となる同母弟・足利基氏らがいる。
元弘3年(1333年)、得宗北条高時に命じられ、父・高氏は幕府打倒の兵をあげた後醍醐天皇討伐の軍勢を率いて出陣する。千寿王は、母とともに人質として鎌倉に留め置かれた。しかし京への道中にて高氏が謀反の意を表すと、そのことが鎌倉に伝わる前に下野へと脱出に成功した(異母兄・竹若は脱出に失敗し殺されている)。
新田義貞が鎌倉攻めの兵をあげると二百騎をひきいてこれに呼応、義詮は4歳で初陣を果たした。千寿王が新田の軍に加わると、源氏の嫡流にして筆頭御家人たる足利家の名声に惹かれ、後には足利高氏による六波羅陥落の勢いに惹かれて諸国から武士が参集した。彼らの中には、元は源氏の嫡流ながら無名の武士に落魄れていた新田家の義貞よりも、足利の嫡男たる千寿王こそ鎌倉攻めの総大将だと見なす者も少なくなかったらしい。こうして千寿王は鎌倉武士の旗印として大きな役割を果たすこととなった。
諸国から参集した大軍と新田義貞の軍略によって、鎌倉は陥落した。千寿王の伯父にあたる執権・赤橋守時は戦死、得宗・北条高時も自害、鎌倉幕府は滅亡した。しかし総大将が新田か足利かが曖昧なままでの戦勝は、やがて両家の対立を引き起こした。新田義貞は上京したため、幼き千寿王は足利家が支配する鎌倉の象徴的な存在となった。
その後、建武2年(1335年)に起きた「中先代の乱」で北条時行率いる鎌倉幕府残党に一時追われる。この時は父・尊氏(鎌倉幕府追討の恩賞として後醍醐帝の諱「尊」を与えられ「尊氏」と改名している)が京より軍勢を率いて下向、残党軍を打ち破ると千寿王は父とともに鎌倉にとどまった。
建武4年(1337年)、北畠顕家が尊氏追討の兵をあげ、東北より攻め上ってくると武蔵で迎え撃ち、敗北を喫したが、情勢が足利方有利となったので鎌倉にとどまることとなった。(榎本秋『征夷大将軍総覧』)
観応の擾乱
貞和5年/正平4年(1349年)、執事・高師直と叔父・直義の対立が鮮明になると対応に窮した尊氏は弟・直義を出家させる。鎌倉に滞在したまま青年となっていた義詮は、失脚した叔父に代わって政務をとるために上洛する。
観応元年・正平5年(1350年)、直義派の上杉憲顕・能顕父子が関東で挙兵、直義もこれに呼応して南朝に帰順して河内で挙兵、翌観応2年/正平6年(1351年)には高一族を殺害し、幕府の実権は尊氏と和睦した直義が握った。
観応2年/正平6年7月、「寺社本所擁護」をくり返した直義の政策が失敗、離反する武将が相次ぎ直義は政務を引退、8月、尊氏・義詮父子は東西から直義を挟撃しようと京を出ると、直義は鎌倉へと脱出、直義追討を正当化するため、今度は尊氏が南朝に降り、文和元年・正平7年(1352年)1月、直義軍を破り和睦、直義とともに鎌倉に入り、2月になって直義は謎の死を遂げた(尊氏に殺されたとの噂が当時から流れ、誰もがそれが真実であると信じられた)。(『日本史広事典』)
南朝との戦い
文和元年/正平7年、南朝との和議が敗れ、南朝の第97代天皇・後村上天皇が北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子・直仁親王を吉野へと刊行する事件が起こった。北朝の正当性を揺るがすこの事態に義詮・佐々木道誉らは仏の道を歩むことになっていた弥仁親王を擁立、親王は還俗して後光厳天皇に即位、義詮らは辛うじて京の秩序を保つことに成功した。(笠原英彦『歴代天皇総覧』)
延文3年/正平13年(1358年)、尊氏が死去、義詮が29歳で2代将軍となるも、南朝との闘いは続いており、不穏な動きも各地で続いた。結局、義詮は4回にわたり南朝に京を奪われることになるのだが、そのたびに取り戻し、貞治2年・正平18年(1363年)には大内氏・山内氏を帰服させるなどし、幕府の強化を進めていった。
貞治6年・正平22年(1367年)、死に際して幼少の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後事を託した。享年38歳。(榎本秋『歴代製板将軍総覧』、『日本史広事典』)