ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

児玉源太郎の編集履歴

2015-11-06 10:40:47 バージョン

児玉源太郎

こだまげんたろう

児玉源太郎は大日本帝国陸軍の軍人。陸軍大将。

概説

児玉源太郎は大日本帝国陸軍の軍人。陸軍大将子爵


嘉永5年(1852年)に周防国都濃郡徳山村(現:山口県周南市)に、長州藩の支藩である徳山藩中級武士である児玉忠硯の長男として生まれた。

しかし、父とは5歳で死別し、姉・久子の婿である家督を継いだ児玉次郎彦によって育てられた。

しかし、

だが、義兄・次郎彦も源太郎が13歳のときに佐幕派によって惨殺され、家禄を失った彼の一家は困窮していた。


しかしその後、明治元年(1868年)に下士官として箱館戦争に初陣として参加した後に、大日本帝国陸軍に入隊し、佐賀の乱神風連の乱といった争乱を鎮圧し、西南戦争では熊本城籠城戦にて鎮台司令長官の谷干城少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護り抜き、この経験が後に従軍した日露戦争にも活かされることとなった。


陸軍史上唯一の、任務のために降格人事を受け入れて任地に赴いた人物である。

第四代台湾総督としても後藤新平らを起用してアヘンの漸禁、鉄道開設、築港など主として平野部の統治普及に多大な治績を残した。山地の統治は次代の佐久間総督がこれを確立した。

台湾総督府前には彼の騎乗姿の銅像が立てられていたが、第二次大戦後これを気に入った蒋介石が首から上だけ自分の顔と取り換えるという暴挙に出た。


日露戦争後に早々と没してしまったのがあまりにも惜しまれる。


関連タグ

後藤新平 台湾総督府 日露戦争 南満州鉄道


乃木希典 日露戦争での部下、第三軍司令官。人事ミス。彼ではなく児玉が旅順要塞の攻略指揮も担当すべきであった。

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました