ブレジネフ
露.Леонид И.Брежнев
英.Leonid I.Brezhnev
第5代最高指導者。4.7代ソビエト議長、2代ソビエト連邦共産党中央委員会書記長(1966年就任)ニキータ・フルシチョフの失脚後、元首を務めていた際に書記長、閣僚議長を兼任し名実ともにソビエトの統治者となった期間は12年でありスターリンの次に長い。
政治的内容としてはスターリンとフルシチョフを足して2で割ったようなリベラル(自由主義)さとコンサーバビリティー(保守主義)さを併せ持った政治を行い、よく言えば共産党の独裁を延命させ、悪く言えばひどくソ連の文化水準や技術・能力を停滞させた。大々的なソビエト国家・共産党の批判は当然のごとく弾圧されたが、目で見えないところでの深い批判は感知しなかった。
ブレジネフ憲法*
1977年にスターリン以来の憲法改正を行う。しかし、その内容は眼新たらしさがない上に『自由を奪うのが当然』という考え方が、当時の社会主義諸国や自由主義諸国も失望させた。
内容概要
- 共産国家(共産党独裁)の維持
- ソ連邦および同盟国(社会主義諸国)の維持のためには、自由を奪うのは当然
- ソ連構成共和国に多少の権限委譲
共産主義のネタ切れ
1970年代末期になるとブレジネフは権力に強く執着し、晩年は数々の勲章で自らを飾り付け国民から嘲られた。それとは裏腹に連邦の勢力低下が顕著になると、それを補う手段としてアフガニスタン侵攻などを行い経済を悪化させた。この戦争は当時・現在ともに評価は低く、連邦崩壊を早めたとされる。
かつて、落語家の立川談志が「昔のソビエトに『共産党本部に告ぐ。ブレジネフの身柄を預かってるから、100万ルーブル持って来い。さもないと、そっちに送り返すぞ。』ってぇ戯言がありまして。」(要約)という痛烈なジョークの存在を紹介しており、この一例からも在任当時の国内評価がどれだけ冷ややかであったかが如実に表されている。