概要
大日本帝国海軍は1939年(昭和14年)に、マル4計画で陽炎型の駆逐艦5隻の追加を行うと共に、陽炎型の部分改良型10隻の量産を決定する。改良により別の型となったため、この後者である改良・追加建造の10隻(最終的には19隻)を「夕雲型」とした。ただし、書類上は陽炎型と同じ「甲型」に類別される。
改良点は35ノットの速度が確実に出るようにしたことと、主砲を改良して広角を上げるなど対空能力を強化した点にある。ただし、対空能力では防空艦である秋月型(乙型駆逐艦)には及ばなかった。
陽炎型との外観上の違いとして艦橋構造物前面の傾斜角があげられる。陽炎型は垂直であるのに対し、夕雲型は下へ広がった末広がりの形状をしている。
1944年以降、陽炎型以前の艦は2番砲塔を撤去し、その跡に3連装機銃を1~2基設置する対空能力強化が行われたが、本艦型はその工事の対象から外れていた。
ちなみに本来は秋雲が一番艦となって「秋雲型」になるはずだったが、前線の補充を急いだために陽炎型の設計がそのまま使われてしまったため、秋雲は設計分類上陽炎型となってしまった。また、その時まで一般には夕雲型とされていた秋雲が陽炎型と断定された決定的な証拠は、秋雲の艦橋部分が写っていた集合写真であり、そこは陽炎型と同様の特徴が写っていたため、詳しい建造経緯を再調査された結果、陽炎型に再分類された経緯を持つ。
長年、秋雲が夕雲型とされてきたのは、この辺りに原因があるのかもしれない。
戦時中に次々に就役し、最終的に19隻が建造された。
期待の新鋭駆逐艦として、前線の損耗補充として実戦投入され、乗員の訓練もままならないままの艦も多く、6番艦の高波に至っては就役から僅か3ヶ月で戦没してしまっている。1945年4月の坊ノ岬沖海戦に参加した朝霜を最後に全隻が除籍された。このうち第二次大戦終結時に船体をとどめていたことがはっきりしているのは18番艦の秋霜くらいだが、この秋霜はマニラ湾空襲で大破着底、その状態で終戦を迎えている(1955年9月に浮揚解体)。
なお17番艦の早霜については、比島沖海戦群の際に船体が放棄されて以後消息不明だが、米艦に破壊されたとする説、第二次大戦終結時に残存していたとする説が混在する。
同型艦
- 1番艦 夕雲
- 2番艦 巻雲
- 3番艦 風雲
- 4番艦 長波
- 5番艦 巻波
- 6番艦 高波
- 7番艦 大波
- 8番艦 清波
- 9番艦 玉波
- 10番艦 涼波
- 11番艦 藤波
- 12番艦 早波
- 13番艦 浜波
- 14番艦 沖波
- 15番艦 岸波
- 16番艦 朝霜
- 17番艦 早霜
- 18番艦 秋霜
- 19番艦 清霜