南北戦争
なんぼくせんそう
概要
1861年から1865年までの5年の間、奴隷制維持と自由貿易を主張するアメリカ南部諸州(アメリカ連合国)と、奴隷制廃止と保護貿易を主張するアメリカ北部諸州(アメリカ合衆国)の間で発生した内戦。アメリカで内戦があったのはあとにも先にもこれっきりなので、アメリカ国内では定冠詞を付けて、The Civil Warと呼ばれる。(世界史などで他の内戦と区別する時はAmerican Civil Warとも表記する)
1861年のサムター要塞の戦いで始まり、当初は優秀な指揮官を数多く抱えた南軍が優勢を保ち、一時は北部の首都ワシントンD.C.まで迫った。しかし、次第に国力の勝る北軍に軍配が傾き、1863年のゲティスバーグの戦いを転機に北軍の優勢が決定的な物となる。そして1865年に南軍首都リッチモンドの防衛部隊であった北バージニア軍司令官にして南軍総司令官、ロバート・E・リーが北軍に対して降伏。北部=現在のアメリカ合衆国が勝利して南北戦争は終結した。
戦死者数は南北あわせて約62万人。これは、現在までにアメリカが参加した全ての戦争の中で最多である。
背景
南北戦争の原因についてたどるには、少なくとも時計の針を19世紀初頭まで巻き戻さなければならない。
特にポイントとなる出来事は、①ルイジアナ買収と米英戦争、②対メキシコ戦争の2つである。
ナポレオン戦争とアメリカ合衆国
この時のヨーロッパはナポレオン戦争の真っ最中であり、アメリカは莫大な戦費により財政難にあえぐフランスから仏領ルイジアナを購入(ルイジアナ買収)。
同時に大陸での戦争にかかりっきりで余力のないイギリスに火事場泥棒的に宣戦し英領カナダへ侵攻したが、英加連合軍の必死の抵抗により攻勢は頓挫。結果的に何も得られるものが無いまま停戦する事になった(米英戦争)。
実は北部の自由州と南部の奴隷州の対立は独立から間もない18世紀の終わり頃から存在していたが、当時の州の数は南北でほぼ同数だったため、議会(上院)での勢力は拮抗していた。しかし、ルイジアナ買収によって州の数が一気に増加。各州は準州の段階を経て州へと昇格するが、この新しい州が奴隷州となるか自由州となるかが議会での大きな争点となっていった。
また、米英戦争により英国製の工業製品を輸入できなくなったアメリカでは北部で工業が発展し始め、アメリカでも屈指の工業地帯へと成長していった。これにより北部では奴隷よりも通常の労働者の需要が高まり、北部で反奴隷制が主張される一因ともなった。
テキサスとカリフォルニア、二つの共和国
ナポレオン戦争の終結から約20年後の1836年。当時メキシコ共和国の領土であったテキサスの分離独立を目論んだアメリカ人入植者(テクシャン)がテキサス共和国を建国。現在でも有名なアラモの戦いなどを経て独立を勝ち取り、それから9年後の1845年にアメリカに併合された。
その翌年、米国の「侵略的」行動に以前から憤慨してしたメキシコとの間に米墨戦争が勃発。その最中にまたもやアメリカ人入植者によってカリフォルニア共和国が建国される。しかし、太平洋地域への貿易港を欲していたアメリカの進撃により、わずか3週間でアメリカ合衆国に併合された。
テキサスとカリフォルニア、新たに増えた二つの広大で豊かな領土は再び論争の種となり、1850年協定{1}によって最終的にはテキサスは奴隷州に、カリフォルニアは自由州となる。
この事例に加え、1820年に成立したミズーリ妥協{2}や1850年協定の4年後に制定されたカンザス・ネブラスカ法{3}といった政治上の混乱から党内で意見が分裂し、解散に至った連邦党、ホイッグ党などの当時の大政党の一部が、奴隷制反対を掲げて新たに発足した共和党に合流。1860年、ついに同党出身のエイブラハム・リンカーンが大統領に当選。
これにより、これまでアメリカ上院において辛うじて均衡を保っていた奴隷制維持派の少数派化は確実となり、ついに1860年12月、サウスカロライナ州が合衆国からの脱退を宣言、他の南部諸州もこれに追随する。
そして翌年3月。リンカーンが大統領に就任して間もないころ、サウスカロライナ州に位置するサムター要塞で砲撃戦が発生する。
経過
1861年―アマチュアの戦争
1862年―軍の組織化
1863年―南部の最高到達点
1864年―グラントの南部侵攻
1865年―アポマトックス
逸話
奴隷制について
戦争終結後のアメリカや日本において、「北軍は奴隷解放のために戦い、南軍はそれに反発して戦争を起こした」という認識がされるようになったが、歴史学者の倉山満氏によれば、これは北軍が自分たちの侵略戦争を正当化するために行ったプロパガンダ(宣伝)工作によるものであるという。
有名なものに、ストウ夫人(ハリエット・ビーチャー・ストウ)による奴隷にされた黒人が悲しい目に遭い非業の最期を遂げる様子を描いた小説『アンクル・トムの小屋』がある。
しかし南部の主張では、「黒人奴隷は貴重な財産だ。アンクル・トムの小屋みたいな話はありえない。大体、ストウ夫人は一度も黒人奴隷を見たことがなかったのではないか」としており、黒人は奴隷の身分だったが大事にされていたと主張している。
現に南北戦争以前のアメリカ連邦時代における最初の6人の大統領は、全員南部のヴァージニア州出身で、『ヴァージニア王朝』とも呼ばれており、「建国の父」と呼ばれている初代大統領ジョージ・ワシントンや独立宣言文の作者である第三代大統領トーマス・ジェファーソンはもともと大農場主で、奴隷だった黒人女性の愛人がおり子供まで生まれていたという。
逆に北部はというと、確かに黒人奴隷はいなかったが、かといって彼らに自由があり差別が無かった訳ではなかった。
例を挙げると選挙における黒人の投票率は0%であり、その理由は投票所に黒人が来ようものなら白人が集団でリンチして追い返してしまっていたからであり、警察も裁判所も見て見ぬふりを決め込んでいたという。
これらから見るに、北部の言う奴隷解放とは建前に過ぎず、真の目的は大陸から黒人を追い出して白人だけの国にすることが目的だったと主張する者もいる。
戦争は当初、世界第3位の大国だったフランスから国家承認を得て、軍人の質で勝っていたアメリカ連合国(南軍)が善戦していたが、アメリカ合衆国(北軍)は当時の大英帝国の首相で熱心な奴隷解放論者だった第3代パーマストン子爵(ヘンリー・ジョン・テンプル)と通じて世界第1位の大国だったイギリスを味方につけようとした。
そこで考え出されたのが「この戦争は奴隷解放のための正義の戦争である」とした『奴隷解放宣言』なのである。
戦後、南部各州は北部による軍事占領下におかれ、『奴隷解放宣言』により南部の州で奴隷の扱いを受けていた黒人は解放され、そのもとで黒人に投票権が与えられた。
しかし、1877年以降南部の白人が州内において主導権を取り戻すと、今度はその反動で南部各州では相次いで有色人種に対する隔離政策(ジム・クロウ法)が立法化され、奴隷こそいなくなったものの人種差別はふたたび強化された。
黒人に対する差別や偏見はKKKなどの活動を生み出す土壌となり、この人種差別状況が改善されるのは、1960年代のアフリカ系アメリカ人公民権運動を待たなければならなかった。
北部・南軍の禍根
総合的な国力で優り、イギリスを味方につけた北軍は徐々に優位となり、南軍は最後の2年には棒切れや石ころを使ってでも戦うようになるまで追い詰められ、完膚なきまでに破壊し尽くされてしまい、南軍の指導者や軍人たちは徹底した復讐裁判で糾弾され、宣伝工作によって南軍は悪の軍勢というレッテルを貼られてしまったのである。
こうした南北戦争における北部と南部の禍根は今だに無くなっておらず、現在でもアメリカ南部では北部の人のことを「ヤンキー」、北部では南部の人を「レッドネック」と互いに憎々しげに呼ぶ文化が未だに残っているほどで、アメリカに大きな傷痕を残してしまっている。
日本との関わり
一見日本とは関係ないように見えるが、実は日本の歴史にも間接的にだが大きく関わってる
時代を見れば分かる通り、日本では江戸時代の末期、幕末であり、南北戦争で使われた、もしくは両軍が武器製造メーカーに発注して余った兵器が日本に流れ込み(当時、大量の兵器需要が求められるような戦争をしていたのは日本ぐらいで、中古兵器販売のメインターゲットとなった)、薩長、幕府問わず銃火器の近代化が推し進められ、戊辰戦争で大きく活用されている。例えばガトリング砲は南北戦争時に発明された兵器だが、大々的に活用されたのは戊辰戦争においてである。
一方で鎖国状態の日本にやってきて、武力で最初に開国させたアメリカは南北戦争の混乱のため、日本にまで手が回せない状態となり、結果として、四斤山砲やエンピール銃といったフランス・イギリス製兵器も大量に流入した。
脚注
- {1}カリフォルニア・テキサスにおける奴隷制の扱い、ワシントンDCでの奴隷制の禁止などを定めた5つの法律の総称
- {2}ミズーリ州を除く北緯36度30分以北の西部諸準州が州となる際、奴隷制を禁じる協定
- {3}前記の協定に反し、奴隷州となるか自由州となるかは準州民が独自に決めると定めた法律